ウルフ・アロンの人生を中学担任の言葉が変えた。東京五輪で金メダル獲得へ勝つよりも 「負けない柔道」を目指す (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by Naoki Nishimura/AFLO SPORT

 ウルフは柔道を続けるためにある高校を選択した。担任の先生にその志望校について相談すると、意外な答えが返ってきた。

「この高校に行くと、柔道でダメになった時にほかに道がなくなる。ここに行くなら、推薦書は書かない」

 当時、その高校は学力的に高いとはいえず、いわゆる柔道をするための学校だった。担任の言葉は進路指導としてはかなり強気だが、柔道がダメになっても、大学進学などの選択肢がある高校を考えてほしいということだった。

 だが柔道しか頭になかったウルフは「なんで?」と、担任の先生の言葉を素直に受け入れることができなかった。しかし、担任の先生も頑なだった。

 そこでウルフが新たな進学先として見つけてきたのが東海大浦安高校だった。柔道では千葉県でもトップクラスの強豪校で、東海大への道も開けている。志望校を担任に伝えると、今度は気持ちよく承諾してくれた。

「いま考えると、東海大浦安に入って初めて日本一になりましたし、そこから東海大に行って世界一にもなれた。あの時の担任の先生の言葉がなかったら、今の僕はないのかなって思います」

 ウルフは高校2年の時に団体戦で高校三冠(全国高校選手権、金鷲旗、インターハイ)を達成。3年時にはインターハイ100キロ超級の個人戦で優勝した。東海大では4年の時に世界選手権ブタペスト大会の100キロ級で優勝し、世界一に輝いた。ウルフ曰く「東海大の4年間は一番成長できた時代だった」。

 1学年上には高校時代からの先輩であるベイカー茉秋(ましゅう)がおり、日本の柔道界を牽引していた。

「茉秋さんのほかにも強い先輩がたくさんいて、その方たちを間近で見られたのは大きかった。柔道のレベルををワンランク上げるために、寮生活を含めた大学生活は必要なものだったと思います」

 強い先輩に囲まれレベルが上がったウルフは、100キロ級の第一人者となった。だがその後、大きな試練が待ち受けていた。

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