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闘魂三銃士が生んだブームと混乱。藤波辰爾は真夜中のファミレスにどん底だった橋本真也を呼んだ (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 三銃士の中で初めて、藤波が持つIWGP王座に挑戦したのは蝶野だった。デビューから海外武者修行を経て、1991年5月31日に大阪城ホールで激突する。蝶野は敗れ、タイトル獲得はならなかったが、同年8月のG1クライマックスの決勝で武藤を破り、トップレスラーの仲間入りを果たした。

 翌年のG1も制して「夏男」と呼ばれるようになったが、1994年にヒールターンしてさらに飛躍。1998年には8回目の挑戦にして悲願のIWGPヘビー級王座を手にした。その時の王者も、やはり藤波だった。

「蝶野は三銃士ではマイペースな性格ですね。武藤とは逆に、自分の世界を崩さないところがあった。それは試合でも共通で、どんな相手でもスタイルを曲げない頑固な部分がありました」

 そして、「もっとも思い入れがある」と語りだしたのが、2005年7月11日、脳幹出血により40歳の若さで急逝した橋本だ。

武藤や蝶野に比べるとやや遅咲きだったが、「破壊王」と呼ばれ、1994年5月1日に藤波を破ってIWGPヘビー級王座を奪還。そこから9度連続防衛するなど、新日本の強さの象徴として君臨した。

 しかし、1999年1月4日の東京ドームで、3度目の対戦となった小川直也に"セメントマッチ"を仕掛けられて事実上のKO負け(結果は無効試合)を喫し、長期欠場に追い込まれた。橋本がどん底に落ちたままの同年6月、藤波は新日本の社長に就任するが、「団体トップとして最初の大仕事は橋本をリングに戻すことだ」と考えたという。

「社長になることが決まった時、とにかく橋本を復帰させることを最優先にしました。だけど、彼は何度連絡しても会おうとしない。それでも粘り強く説得を続けることで、ようやく会って話をすることができました」

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