野村忠宏は「自分の柔道」を貫いた。五輪3連覇が重圧ではなかった理由
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PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第17回
2020年7月の東京オリンピック開幕まであと7カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。
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柔道男子60kg級の野村忠宏にとって、2004年のアテネ五輪はオリンピック3連覇がかかった大会だった。
アテネ五輪柔道男子60kg級で優勝。オリンピック3連覇を果たした野村忠宏 96年アトランタ五輪は、初出場ながら注目されていない気楽さもあるなかで、攻めの柔道を貫いて頂点に立った。
連覇のプレッシャーが大きくのしかかった00年シドニー五輪は、相手にしっかり研究され、得意の背負い投げを出せない状況。それでも多彩な技を繰り出して、優勢勝ちの準決勝以外は、すべて違う技で一本勝ちを収める強さを見せつけて優勝した。
だが、04年アテネ五輪では、"3連覇"の数字自体は大きなプレッシャーになっていなかった、という。
「いろんなところで『3連覇』と書かれても、『ふーん、言ってるな』程度の意識でした。自分の中では、誰もやっていない3連覇の記録は励みになったけど、それよりもモチベーションになったのは、前年の世界選手権大阪大会で感じた悔しさですよね。もう一度世界一になりたい、という気持ちのほうが大きかった」
野村にとって3度目の挑戦は、前の2回とは状況がまったく違っていた。シドニー五輪後は現役を継続する決断ができず、柔道からも少し距離を置いた。結婚を機にアメリカに語学留学もして、そのブランクは2年間になった。
アテネ五輪を目指すと決めてからも、2年2カ月ぶりの公式戦復帰になった02年11月の講道館杯では、準決勝で内柴正人に1本負けして5位に終わった。ポーランド国際に出場して5位に終わった03年3月には、「復帰は間違いだったのではないか」とも考えたそうだ。
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