2019.05.31

ジャイアント馬場が立案。幻の計画
「三沢と川田でタイガーマスク兄弟」

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Kimura Moritsuna/AFLO

「名誉レフェリー」の追憶・ジャイアント馬場 前編

“東洋の巨人”とうたわれた不世出のプロレスラー、ジャイアント馬場がこの世を去ってから今年で20年が経った。2月19日には両国国技館で「没後20年追善興行」が開催され、団体の枠を超えて多くの選手たちが参戦。イベントは超満員の観衆を集め、あらためてその偉業が見直される形となった。

 日本人として初めてNWA(全米レスリング同盟)世界ヘビー級王者となった偉大なレジェンドは、どんなプロレス観を持ってリングに上がっていたのか。全日本プロレスの「名誉レフェリー」で、馬場のマネージャーも務めていた和田京平が知られざる秘話を明かす。

日本プロレス界を象徴する存在だったジャイアント馬場 1955年にプロ野球の巨人に入団した馬場は、大洋(現DeNA)に移籍した1960年の春キャンプで大ケガを負い引退。同年、巨人時代に面識があった力道山に直訴して日本プロレスに入団した。身長209センチ、体重145キロと日本人離れした体格を持つ馬場は、日本だけでなくプロレスの本場アメリカでも人気を獲得し、1963年12月に力道山が急逝して以降、日本プロレスのエースとしてマット界を支えた。

 1972年には日本プロレスを退団し、自らの団体となる全日本プロレスを設立。そこでリングを設営する「リング屋さん」として団体に携わっていた和田は、その機敏な動きが馬場の目に留まり、旗揚げ2年後の1974年からレフェリーに抜てきされた。同時に馬場のマネージャーも務め、公私で生活を共にすることになる。

 レスラーとして、団体の経営者として一時代を築いた馬場は、どんな基準でレスラーを評価していたのか。和田はこう振り返る。

「絶対的な基準は、受け身。馬場さんは受け身がうまい選手を高く評価していました。中でも、ハーリー・レイス、ディック・マードック、ドリーとテリーの”ザ・ファンクス”の兄弟。日本人選手だったら大熊元司さんを絶賛していました。本当にあの方たちの受け身はすごかったので、馬場さんは若い選手たちに教える際もレイスやマードックの名前を出して、『お前らマネしろよ』と言っていましたよ」