【国際プロレス伝】反則負けのデビュー戦。新人がいきなりやらかす

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • ベースボール・マガジン社●写真

【第2回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 大阪でボディビルの魅力に目覚めた浜口平吾(はまぐち・へいご)――のちのアニマル浜口は、トレーニングで通っているナニワトレーニングセンターで人生の分岐点に立つ。国際プロレスを立ち上げた、吉原功(よしはら・いさお)との出会いだ。それをキッカケにアニマル浜口は、憧れの「プロレスラー」への道を歩み始めた。

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国際プロレスを設立した吉原功(中央)国際プロレスを設立した吉原功(中央)「アニマル」の名付け親・吉原功(2)

 思いもよらぬ縁によって開かれた、プロレスラーへの道――。しかし、せっかく地道に働き始めた息子が突然、海のものとも山のものともわからない世界......しかも、身体を張った戦いの場に飛び込むと言い出したら、ほとんどの母親は止めるだろう。やめさせようとするのが、親なら当たり前だ。

 浜口も、母親を説得するのに1年を要した。その間も身体を鍛え続け、1969年7月にはボディビル兵庫県大会で準優勝。"準ミスター兵庫"に選ばれた彼には、秋に行なわれるボディビル日本選手権の出場権が与えられていた。しかし、22歳となる8月には国際プロレスへの入門が決まったために出場を辞退。ナニワトレーニングセンターの荻原稔会長に付き添われて新幹線で上京し、プロレスラーとしての第一歩を踏み出した。

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