【視覚障害者柔道】ロンドンパラリンピック代表内定~半谷静香を強くした「東日本大震災」

  • 矢沢彰悟●文・写真 text by Yazawa Syougo

「何も考えずに、ただ頂点を目指してやってほしい」と、小川直也道場長(左)「何も考えずに、ただ頂点を目指してやってほしい」と、小川直也道場長(左)
 勢いが違った。"始め!"の合図がかかる度に、彼女は気勢を揚げる。この試合は勝てば宿願だったロンドンパラリンピックへの出場が内定する試合だった。

 小川道場に所属する半谷(はんがい)静香は昨年行なわれた全日本選手権で、自分よりも階級が上の選手をも押しのけて優勝している。いわば現在の視覚障害者柔道において日本女子最強とも言える選手である。弱視のため、明るい場所は苦手で、色の判別はほとんどできない。

 だが、半谷はいわゆる幼少時からのスポーツエリートとは程遠かった。スポーツ経験はほとんどなく、小・中・高校と盲学校ではなく普通校に通っていたため、"できることだけやれ"と言われていた体育の授業もほとんど参加できなかった。一つの転機は、中学校で部活に入らなければいけないことだった。

「帰宅部っていうのはイヤだったので。でも仲のいい友達はみんな卓球部とテニス部に入って、"卓球とテニスはちょっと無理だな"って。それで合唱部とか吹奏楽部も考えて、最終的に美術部に入ろうかなって思っていたときに、兄が柔道部だったので一度見に行ったのがきっかけでした。私の同学年も5人くらいいて多かったので、柔道部でいいや、柔道ならなんとかなるかなって」

 中・高校と所属した柔道部では、「いつも部内でビリを争うくらいのレベル」だった。

「勝つことももちろん目標にしていましたけど」と、半谷は言う。

「私は柔道ができていること自体が自分じゃないみたいな。ちゃんと練習についていけていたかは分からないですけど、過去を振り返ればスポーツなんてできなかったので、高校のとき山道を走れるようになったことすらも嬉しくて。だからみんなとの価値観が違ったというか、みんなは勝つためにやっていましたが、私は自信をつけるためにやっているという感じだったんです」

 故にパラリンピックのことなど、全く考えたこともなかった。そもそも、半谷は視覚障害者柔道の存在を大学に入るまで知らなかった。

 その後、半谷は大学で視覚障害者柔道の世界に入るとすぐに全日本で優勝。だが元来の性分で、このときも「たまたま落ちてきたものを掴んじゃった」という感覚しかなく、自分のイメージと実際の立ち位置のギャップに戸惑うことのほうが多かった。

まず全日本選手権に出場が決まると

「えっ!全日本?」

そして初めての全日本で優勝

「全国1位!?エエッ??」

そのまま北京パラリンピック内定

「いきなり北京!?」(後にIBSAの障害認定検査を受けてないという理由で内定は取り消された)

代表合宿が行なわれるとなると

「あの筑波大学に行けるの!? 山口香さんに会える!」

 いちいち自分の身に起こる出来事に驚いた。

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