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ラグビー日本代表・平尾誠二との「CTBコンビ」でスコットランドから金星 朽木英次は大一番にめっぽう強かった (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【新日鉄釜石の8連覇を阻止】

 福井出身で有名なラガーマンといえば、元日本代表FLにして伏見工業(現・京都工学院)を全国制覇に導いた名将・山口良治監督がいる。その彼も歩んだ日本体育大に同じく進学した朽木は、大学2年時にSOへコンバートすると、その才能を一気に開花させた。

 ハーフ団のなかで突出した瞬発力を武器に、大学3年時には関東大学ラグビー対抗戦で優勝。さらには大学選手権でも日体大を牽引し、チームを準優勝に導く。高校時代は無名だった朽木の名は関係者の間でも知れ渡るようになり、大学卒業後はトヨタ自動車に入社することになった。

 トヨタ自動車でも朽木は、SOのポジションで高い評価を得る。若くして主力メンバーに抜擢され、1985年度の全国社会人大会では新日鉄釜石の8連覇を阻止して優勝。さらに翌年の1986年度も連覇を果たし、日本選手権では大東文化大を下し頂点をつかみ取った。

 日本代表の初キャップを獲得したのは、1985年10月のフランス戦。朽木は10番を背負ってピッチに立った。結果はフランスの「フレンチフレア(シャンパンラグビー)」に圧倒されて0-50という大敗を喫するも、朽木の正確なパスと強烈なタックルは日本にとって新たな武器となっていく。

 朽木がCTBとして起用されるようになったのは、1986年のアメリカ・カナダ遠征から。背番号は10番から13番に変わった。

 そして6月7日に行なわれたカナダ戦。13番の朽木は12番の平尾と組んで勝利(26-21)に大きく貢献し、それ以降、彼らのCTBコンビは代表に欠かせぬパーツとなった。

 1996年、朽木は現役を引退、ブーツを脱ぐとすぐに日本代表のテクニカルスタッフとなり、1999年のワールドカップ・ウェールズ大会ではピッチの外から日本代表をサポートした。さらに2003年から2007年までトヨタ自動車の監督を務め、トップリーグの昇格や日本選手権で準優勝に導く手腕も発揮する。

 現在もトヨタ自動車で働きつつ、日本ラグビー協会のスタッフなどを務め、ラグビーの強化・普及に努めている。メディアに多く露出するタイプの性格ではなかったが、ラグビーファンは決して忘れることのない「玄人受け」するCTBだった。

著者プロフィール

  • 斉藤健仁

    斉藤健仁 (さいとう・けんじ)

    スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。

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