伝説のラガーマンが「天性のキャプテンシー」と惚れ込んだ逸材 菊谷崇は常に笑顔でチームを引っ張った (3ページ目)
【セブンズ日本代表から15人制へ】
入部当初は練習がつらくて、何度も辞めようとした。しかし、「竹田先生が怖くて言い出せなかった(笑)」。ただ、竹田監督はボールキャリーとしての才能を菊谷に見いだしていたという。ラダーを使ったステップのトレーニングを課し、それが将来の大きな飛躍へとつながった。
高校3年時になると身長は187cmまで伸び、FWの中軸として活躍。奈良予選で天理高を下して花園の切符をつかみ、自身も高校日本代表に選出された。
「勝っても負けても、仲間と分かちあえる、ラグビーの楽しさを竹田先生には教わりました」
高校卒業後、菊谷は一般企業に就職するか、消防士になろうとしていた。しかし、竹田監督に「大学に行け!」と諭されて、憧れの先輩だったSO内村力(元・豊田自動織機)のいる大阪体育大に進学。これもまた、ひとつのターニングポイントだった。
「ラグビーに出会っていなければ、今は何をしているかわからない。ラグビーを始めたから、今の自分がある」
大阪体育大に進学したのは正解だった。1年時から公式戦に出場。在学中に7人制ラグビーの日本代表も経験。4年時には大学選手権2回戦で早稲田大と戦い、54-58と接戦を演じた。
「社会人でラグビーを続けるつもりはなかった」
大学卒業を控え、菊谷はそう考えていた。ただ、セブンズでの活躍を評価されて2002年にトヨタ自動車へ。2005年にはセブンズのワールドカップにも出場し、同年11月に行なわれたスペイン戦で15人制の初キャップを獲得すると、さっそく初トライも記録した。
菊谷のラグビー人生は順風満帆に思えた。だが、2007年ワールドカップはケガの影響で代表メンバーから落選してしまう。しかし、2008年からはコンスタントに選ばれ続けてキャプテンも託され、2011年のパシフィック・ネーションズカップでは優勝に大きく寄与した。
トヨタ自動車で11年間プレーしたのち、2013年にはイングランドのサラセンズに加入。海外挑戦を経て、2014年からキヤノンイーグルス(現・横浜イーグルス)でプロ選手となった。そして2018年、菊谷は惜しまれつつ引退する。
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