伝説のラガーマンが「天性のキャプテンシー」と惚れ込んだ逸材 菊谷崇は常に笑顔でチームを引っ張った (2ページ目)
【燃え尽きるほどジャパンに捧げた】
このワールドカップでの最終戦は、JK体制5年の集大成だった。あと一歩のところで勝利をつかみ損ね、「ラグビー人生をかけた試合をしたい」と意気込んでいた菊谷は、グラウンドで悔し涙を流した。
しかし試合後の菊谷は、スキッパーとしての責任感か、気丈に振る舞った。
「引き分けという結果は本当に残念ですが、われわれが経験してきたことは次の世代に伝える必要がある。そうすれば、私たちが実現できなかった目標を達成してくれる。キャプテンとして仲間と一緒にやってきた3年間、日本代表は成長した。ホンマに素敵なチームでした」
大会終了後、日本代表はエディー・ジョーンズを指揮官に迎え、4年後に、叶えられなかったワールドカップでの勝利を誓った。菊谷は当時31歳だったが、「若い選手が多いので来てほしい」とジョーンズHCに説得され、グラウンド外のリーダーとして日本代表に関わり続けた。
だが、2015年ワールドカップに菊谷が出場することはなかった。理由は本人いわく「燃え尽きちゃって(笑)」。燃え尽きるほど、菊谷は全身全霊で日本代表に己を捧げた。
2008年に菊谷が15人制で初キャップを獲得してから2013年に離れるまでの出場68試合で、多くのファンが覚えているテストマッチのひとつと言えば、2013年6月のウェールズ戦ではないだろうか。今から12年前、強豪相手に対して菊谷が強烈なリーダーシップとパフォーマンスを発揮したことで、ジャパン史上初となるウェールズ戦勝利をもぎ取ることができた。
その強靭なメンタルは、どうやって形成されていったのか。菊谷は奈良県北葛城郡新庄町(現・葛城市)に生まれ、小学校時代は野球に熱中していた。中学時代は補欠が多かったと言うが、中学3年の夏以降に急に身長が伸びて、卒業時には180cmくらいになっていたという。
その見事な体躯に注目したのが、当時ラグビー強豪校の道を歩み始めていた奈良県内の御所工業(現・御所実業)。竹田寛行監督に誘われたことで、菊谷は楕円球の道へと進んだ。
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