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ラグビー日本代表が誇るワールドクラスのNo.8 伊藤剛臣のスピードは間違いなく世界に通用していた (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【胸に響いた平尾誠二の言葉】

 そして迎えた2003年ワールドカップ。FLの箕内拓郎と大久保直弥、そしてNo.8伊藤の3人によって形成されたバックローは、日本代表において欠かせないダイナモとなった。

 伊藤のプレーは、攻守にわたってチームを勢いづかせた。特にスコットランド戦で激しいタックルを繰り返した奮闘ぶりは、海外メディアが「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」と称賛するほど輝きを放っていた。

 ワールドクラスの屈強な男たちのなかでも、スピードを武器にアタックを試みる伊藤のボールキャリーは、間違いなく世界に通用していた。

「ラグビー日本代表のプライドを、少しは取り戻すことができたかな」

 屈強な男は優しい笑みを浮かべて、当時をそう振り返った。

 伊藤は東京都荒川区出身。小学校時代は野球、中学校時代はバスケットボールに興じていた。高校は法政二高に進学すると、硬式野球部の門を叩いた。しかし、本人いわく「落ちこぼれてしまい」、父親やラグビー部の顧問に「ラグビーをやれよ!」と勧められ、その助言を素直に受け入れて楕円球の世界に足を踏み入れることになる。

「ちょうどテレビで『スクール☆ウォーズ』を見たあとだったので、すぐに目標を『甲子園から花園へ』に変えました!」

 高校1年生ですでに180cmほど上背があり、監督が「お前はLOだ!」と即決したため、高校時代はLOとしてプレーした。高校日本代表にはFLで選出されるが、それをきっかけに「日本代表に選ばれてワールドカップに出たい......という夢を抱くようになった」と話す。

 進学した法政大ではNo.8のポジションで主軸となり、24年ぶりの日本一に大きく貢献。日本選手権で神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に敗れたことで、今度は「日本選手権で優勝して日本一になりたい」という新たな夢も抱くようになった。

 社会人としてプレーするにあたり、伊藤は10チーム以上から誘われていたという。ただ、神戸製鋼で当時キャプテンを務めていた平尾誠二に会った時、こう言われる。

「東京出身だから東京のチームにこだわっているかもしれないが、男だったら一度、外でメシを食ってみろ!」

 その言葉が胸に響き、伊藤は神戸製鋼のジャージーを選んだ。

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