平尾誠二が描いたグローバル化。日本ラグビーの進む道と可能性を見た (3ページ目)

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

 ところで、平尾さんと共にプレーし、平尾さんが監督となった1999年W杯で代表選手だった村田亙さんもスタジアムで故人を偲んだ。日本ラグビーは1995年W杯でのニュージーランド戦惨敗(17-145)を屈辱とし、「日本全体でやらなければ」と世界に本気で挑んだ1999年W杯だった。

 そのため、平尾さんは慣習を破り、元NZ(ニュージーランド)代表のジョセフ(現HC)ら外国選手を6人も代表に選んだ。村田さんはSHの正ポジションをW杯直前、元NZ代表のグレアム・バショップ氏に譲った。村田さんは思い出す。

「世界で勝つため、日本代表の"グローバル・スタンダード化"をいち早く取り入れたのが平尾さんだった」

 それから20年。外国出身選手は、代表31人中15人に増えた。世界に伍していくためには、フィジカルの強い外国選手の起用は必然だろう。日本ラグビー協会の代表強化は進み、時間も労力も資金も投入するようになった。妥協を許さぬエディー・ジョーンズHC(現イングランド代表HC)がチーム強化に努め、日本代表に勝つ文化を根づかせた。

 その流れを引き継いだジョセフHCがさらに心身のタフさを求め、長期合宿でハードワーク(猛練習)を積んできた。『ONE TEAM』、ひとつとなった日本は1次リーグではアイルランド、スコットランドなどの強豪を破る4戦全勝で決勝トーナメントに初めてコマを進めたのだった。

 平尾さんら多くの人々の努力、挑戦の積み重ねが初めての日本開催のW杯で結実した。新しい歴史を創った。社会的なラグビーブームも巻き起こした。

 4大会連続のW杯出場。試合後、代表引退を宣言した38歳の"トモさん"こと、ロックのトンプソン・ルークは笑いながら、「おじいちゃんロックはもう、絶対、(代表は)終わりや」と大阪弁で言った。

「いま、ラグビーはすごいブームやね。日本のラグビーはレベルアップした。みんな、勝つ文化、わかった。僕、引退。若い選手、いっぱい、いるよ」

 最後に、再び、ジョセフHC。

「収穫は、すばらしい選手が日本にはいることがわかったことだ。いいシステムを導入することができれば、選手はどんどん成長することができるだろう」

 トップリーグなど国内のラグビー環境をどう変えていくのか。プロリーグ構想も浮上している。日本ラグビーのカタチ、海外チームとのマッチメイク、国際大会への参入など日本代表の環境づくりなどが課題となる。

 W杯中、世界ランキングは最高6位まで上がった。代表のレベルの停滞は許されない。4年後、ベスト4を目指し、さらなる代表強化が始まることになる。

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