日本の司令塔・田村優はラグビーで
必須の能力をサッカーで学んだ
ラグビーワールドカップ開幕を2カ月後に控え、キャプテンのFL(フランカー)リーチ マイケルとともに「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」ラグビー日本代表の命運を握る選手がいる。それは、絶対的司令塔として2016年から10番を背負い続けているSO(スタンドオフ)田村優だ。
司令塔としてジェイミー・ジャパンの中軸を担うSO田村優 日本代表は6月上旬から7月中旬まで、3クールにわたって宮崎合宿を敢行。地獄のような厳しいメニューをこなし、より強固な土台を築き上げた。異例となる夜練習も行ない、フィットネスとフィジカルも大幅に向上という。ケガなく合宿を乗り切った田村は、「長かった。毎日きつかった」と振り返った。
その成長ぶりを確認すべく、日本代表(世界ランキング11位)は今週末からワールドカップ前哨戦「パシフィック・ネーションズカップ(PNC)」を戦う。7月27日に岩手・釜石で行なわれる格上のフィジー代表(9位)戦を皮切りに、8月3日は大阪・東大阪でトンガ代表(13位)、そして8月10日にはフィジーでアメリカ代表(15位)とあいまみえる。
チームの中軸を担う田村は、迫るワールドカップを前にして、「まずはPNCが楽しみ」と意気込む。今年1月に30歳になって円熟味を帯び、チーム内での存在感は増すばかりだ。同い歳のリーチは田村のことを、大学時代は「天才」、そして日本代表になってからは「神様」と称えた。それほど、田村はパスやキックのスキルだけでなく、スペースにしっかりと攻撃する判断力にも長けている。
そんな田村は中学まで、サッカーをプレーしていた。スペースを見つける能力と自由奔放なプレーの原点は、サッカーで学んだと言っていい。
だが、田村はトヨタ自動車でプレーした父・誠さんの影響もあり、愛知の親元を離れて國學院栃木に進学。楕円球の道に進む。そして、父の友人である吉岡肇監督、当時コーチだった古庄史和氏(現・白鷗大監督)のもと、研鑽を積んで花園の舞台にも立った。
明治大に進学した1年時から、「紫紺のジャージ」の10番を背負った。だが、当時の田村はいい時と悪い時のプレーがハッキリしていて、「波のある選手」という印象が強かった。
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