スーパーラグビー参戦。山田章仁が叶えた「10年越しの夢」 (2ページ目)

  • 向風見也●文 photo by Mukai Fumiya
  • photo by YUTAKA/AFLO

 以後、あちこちで「世界で戦いたい」と口にするようになり、自らも積極的に動いた。自身のプロモーション映像を作成し、欧州をはじめとする各国のクラブチームに送った。大学卒業後も「進路未定」として海外チームからのオファーを待ったが、現実は厳しかった。

 日本の大学ラグビー界では有名選手だったとはいえ、国際経験の乏しい山田を評価するチームは少なかった。オファーがないまま海を越えることも考えたが、ビザを取ることすらままならない。結局、(当時)トップリーグの下部リーグにいたホンダと1年契約を交わし、技術の研鑚に励むことにした。ちなみに、「いつでも海外に行けるように」と、山田は一度も複数年契約を結んだことがない。

「当たりやスピードでは世界一になれないけど、相手をかわすとか、細かいせめぎ合いで世界一を目指したい」

 スピードのついた状態から、さらにギアを上げ、飛んだり、回ったりしながらタックルをかわす。誰も真似できないプレイを模索してきた。技術向上に努めた結果、2年間在籍したホンダではトップリーグ昇格に貢献し、三洋電機へ移籍した初年度の2010年シーズンは初のプレイオフMVPを獲得した。

 それでも海外からの誘いは来なかった。スポーツマネジメント業務を営む知人から聞いたのは、「留学という形なら」というものだった。

「まあ、よくある話です。まだ日本代表じゃないし......」

 そんな山田に転機が訪れたのは2012年。元オーストラリア代表監督のエディー・ジョーンズが日本代表のヘッドコーチ(HC)に就任した。山田は慶応大時代からジョーンズHCと親交があり、その考えを理解していた。さらに言えば、本人から直接ニーズを聞くだけの人間関係を作っていた。。

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