森薗美咲、政崇、美月の壮絶卓球人生。
「父は星一徹のように厳しかった」 (3ページ目)
木下アビエル神奈川に所属する森薗美月 当時、美咲は「小学生なんですけど、自分が生きていくので精いっぱい」だったので、美月が卓球を始めたという記憶がなかった。だが、政崇は「ついにこっち側にきちゃったな」と思いつつ、「卓球を始めてくれたのはうれしかった」という。
こうして3人は揃って卓球の道に進むことになったのである。
美月が小学校に上がっても美咲と政崇は、正月になると愛媛に来ていた。一緒に練習し、終わったら食トレである。政崇と美月は食が細いため、無理やり詰め込むとそのままトイレに行き、リバースすることもあったという。「卓球の練習もキツイけど、食べる時間もめちゃキツかった」と、美月は食トレが卓球の練習よりも嫌いだったという。
3人一緒に練習ができていたのは、美月が小3の頃までだった。小4になると4歳年上の美咲は青森山田中学に進学し、エリート街道を歩み始めた。
美咲は2004年、2005年と全日本選手権のカデットの部(13歳以下女子シングルス)で準優勝し、2006年全中女子シングルスでも準優勝。ITTF女子ワールドカデット女子シングルスで優勝するなど、その名前は全国区になっていっていた。
政崇も全日本卓球選手、カブの部(小4以下)で優勝するなど、早くから目立ち、森薗姉弟として注目を浴びるようになっていた。父の厳しい指導により、ふたりの才能が開花していったのだ。
美月は、スタートが遅かったので、なかなかふたりに追いつくことができなかった。
「私が始めた時は、ふたりはすでに雲の上の存在でした。あまりにも遠いんで、ふたりに追いつくというよりも純粋に強くなりたいという気持ちで卓球をしていましたね」
ふたりに出遅れた美月も力をつけていき、小6の時にJOCジュニアオリンピックカップ女子カテッドの部で初めて全国優勝を果たすことになる。
その後、美咲は青森山田高校に進学し、政崇が青森山田中学に行き、美月はJOCアカデミーに入った。そこから3人は、ぞれぞれの環境で自分自身を磨いていくことになり、しばらく距離を置くことになる。
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