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NBA伝説の名選手:アレックス・イングリッシュ 史上初の8年連続2000得点以上をマークした1980年代を代表する優雅なスコアラー (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【過小評価されるもスコアラーとしての偉大な功績】

 イングリッシュが全盛期だったころのナゲッツは、ウェスタン・カンファレンスでプレーオフの常連になり、1985年にカンファレンス決勝まで勝ち上がる。ロサンゼルス・レイカーズとの第2戦でイングリッシュは40点を記録してナゲッツを勝利に導き、1勝1敗でホーム2連戦に臨めるはずだった。しかし、優勝経験豊富な選手を揃えるレイカーズは第3戦を18点差、第4戦も4点差でモノにする。

 レイカーズに王手をかけられてしまった第4戦の3クォーターで、28得点と好調だったイングリッシュは右手親指を骨折。手術を受けたことで残るプレーオフへの出場が不可能になっただけでなく、カルビン・ナットやラファイエット・リーバーという他の主力選手もケガに直面していたことも影響し、第5戦のナゲッツは109対153の大敗を喫してNBAファイナル進出を逃した。

 のちにイングリッシュは、こう語っている。

「親指を骨折していなければ、レイカーズに勝つチャンスがあったと思う」

 イングリッシュとナゲッツはその後、カンファレンス準決勝の壁を破ることができなかった。モーHCが1990年を最後にチームを去ると、36歳でフリーエージェントになったイングリッシュもダラス・マーベリックスへ移籍。22.1分の出場時間で9.7点に終わった1990-91が、NBAでプレーした最後のシーズンになった。

 15年間で通算2万5613点を記録したイングリッシュに対し、ナゲッツは1992年に背番号2を永久欠番にした。1997年にはホール・オブ・フェイム(殿堂)入りを果たしている。

「私はNBAで15年間プレーしたけど、年月が進むにつれて、毎年よくなっていると感じていた。私は一貫していたんだ。ある夜は10点、次の夜に30点を奪う選手もいる。しかし、私は自分のゲームで一貫したプレーヤーであり、細身だったにもかかわらず、ケガをしない耐久性があることに誇りを持っていた。耐久性と一貫性を保つことだ」

 キャリアをこう振り返ったイングリッシュが耐久性と一貫性を持っていたことは、NBA史上初となる8シーズン連続で2000点以上を成し遂げたことでも明らか。オールNBAチームにもセカンドチームで3度しか選出されなかったことも含め、1980年代のNBAで非常に過小評価されていた選手だと言っていい。

【Profile】アレックス・イングリッシュ(Alexander English)/1954年1月5日生まれ、アメリカ・サウスカロライナ州出身。1976年NBAドラフト2巡目23位指名。
●NBA所属歴:ミルウォーキー・バックス(1976-77〜1977-78)―インディアナ・ペイサーズ(1978-79〜1979-80途)―デンバー・ナゲッツ(1979-80途〜1989-90)―ダラス・マーベリックス(1990-91)
●主なスタッツリーダー:得点王1回(1983)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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