NBA伝説の名選手:ディケンベ・ムトンボ コート外の人道的活動含めて世界に影響を与えた「リング下の守護神」 (3ページ目)
【恵まれない環境における機会創設など尽力】
引退後も世界中を巡り、人道的な活動を続けてきた photo by Getty Images ムトンボは得点とリバウンドでダブルダブル、ブロックショットも3本前後の数字を記録してきたが、2001年2月22日のトレードでホークスからフィラデルフィア・76ersへ移籍。大学の後輩であるアレン・アイバーソンが大黒柱のチームではリング下の守備とリバウンドで存在感を発揮し、イーストで最高成績となる56勝26敗でプレーオフに進出。ムトンボは平均13.8点、13.7リバウンド、3.1ブロックショットと攻防両面で活躍し、プレーオフも勝ち抜き、キャリア初となるNBAファイナルの舞台に立つことができた。
しかし、シャキール・オニール、コービー・ブライアント率いるロサンゼルス・レイカーズに完敗。敵地での第1戦でシクサーズはアイバーソンが48得点と爆発し、その年のプレーオフで12連勝と無敗を誇っていたレイカーズに土をつけたが、その後、4連敗で優勝を逃した。2002年8月にニュージャージー・ネッツにトレードされたムトンボは、控えセンターとして2度目のNBAファイナルを経験したが、サンアントニオ・スパーズに敗戦。その後所属したヒューストン・ロケッツではヤオ・ミンの成長に大きく貢献したが、2008-09シーズンを最後に42歳で現役を引退した。
「私はNBAで18年間プレーした。優勝は果たせなかったが、数多くのことを成し遂げたと感じている。成功はチャンピオンシップリングだけで測ることはできない。コートの内外で多くの人々の人生に影響を与えたことを、私は最も誇りに思っている」
自身のNBAキャリアをこう語ったムトンボは、人道主義者としてオフコートでも大きなインパクトを残している。1997年にディケンベ・ムトンボ財団を設立し、コンゴ民主共和国の生活環境を向上させることを皮切りに、さまざまな活動に関わってきた。
2007年にはベッド数が150以上の病院を首都・キンサシャに建設するために、1500万ドルを寄付した。
「私の目標はコンゴの人々に恩返しをすること。母は常に恵まれない人たちを思いやりなさいと私に教えてくれた。この病院は母の遺志を尊重しながら、最も助けを必要としている人たちを助けるための手段なんだ」
こう動機を語ったムトンボは、新しい病院を1988年に亡くなった母の名前と同じビアンバ・マリー・ムトンボ・ホスピタルと命名。ほかにもアフリカにおける教育、特に女性が勉強する機会や奨学金制度、ユニセフの親善大使としても活動していた。
2022年10月、ムトンボは脳腫瘍の治療を受けていることを公表したが、2024年9月30日に58歳で永眠。バラク・オバマ元アメリカ大統領ほか、影響力の強い多くの要人たちがSNS等でコメントを発し、その死を悼んだ。
コンゴ民主共和国キンシャサの地からNBA史上最高のディフェンダーのひとりにまで上り詰めたムトンボの人生は、粘り強さ、スキル、そして心の強さを証明するものだった。
【Profile】ディケンベ・ムトンボ(Dikembe Mutombo)*フルネームはディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャック・ワムトンボ/1966年6月25日生まれ、コンゴ民主共和国(旧ザイール)出身。1991年NBAドラフト1巡目4位指名。
●NBA所属歴:デンバー・ナゲッツ(1991-92〜1995-96)―アトランタ・ホークス(1996-97〜2000-01途)―フィラデルフィア・76ers(2000-01途〜2001-02)―ニュージャージー・ネッツ(2002-03)―ニューヨーク・ニックス(2003-04)―ヒューストン・ロケッツ(2004-05〜2008-09)
●NBAファイナル進出2回(2001、03)/最優秀ディフェンス選手賞4回(1994、96、97、2000)
●主なスタッツリーダー:リバウンド王2回(2000、01)/ブロックショット王3回(1994〜96)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。
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