【F1】日本GPとホンダの歩み(1)セナ・プロ対決と中嶋悟の登場にファンが熱狂した時代
F1日本GPとホンダの歩み(前編)
「黎明期の熱狂と、黄金時代の幕開け」
1962年、本田宗一郎の「日本に世界に通用するサーキットを」という情熱から産声を上げた鈴鹿サーキット。それは単なるコースの誕生ではなく、日本のモータースポーツが世界へ羽ばたく「聖地」の完成を意味していた。
1987年のF1日本GP鈴鹿サーキット初開催、アイルトン・セナとアラン・プロストによる「伝説のセナ・プロ対決」、そして日本人初のフルタイムF1ドライバー中嶋悟の挑戦──。前編では、日本中にF1ブームを巻き起こした熱狂の黎明期を振り返る。
ホンダのロゴが入ったマクラーレンはこの時代の象徴だった photo by BOOZYこの記事に関連する写真を見る(1)【1962年】すべてはここから始まった。「鈴鹿サーキット」誕生
1962年9月20日、日本初の国際レーシングコースとして誕生したのが、三重県鈴鹿市の「鈴鹿サーキット」だ。
ホンダの創設者である本田宗一郎氏が2輪レースで海外を転戦するなか、ずっと脳裏で描いていた構想があった。「日本にも本格的なサーキットが必要だ」。その揺るぎない決意のもと、日本でのサーキット建設計画は動き出した。
当時の日本では舗装路のコースが存在せず、ダートコースや飛行機の滑走路を用いてレースを開催していたこともあった。それらを根本から変えるべく、建設に向けてヨーロッパのコースを視察。オランダ出身のサーキット設計者、ジョン・フーゲンホルツ氏のアドバイスも受けて、丘陵となっている鈴鹿の地形をうまく利用したコースレイアウトが完成した。
現在までに、鈴鹿サーキットのいくつかのコーナーが形状を変更されたことはある。しかし、8の字形状を含めたコースの大枠のレイアウトは、開業当時からそのまま保たれている。
この頃のホンダは2輪に力を入れており、1961年にWGP(2輪世界選手権)でチャンピオンを獲得。次なる技術鍛錬の場として、4輪への挑戦を決めた。
鈴鹿サーキット開業から約2年後の1964年8月、ニュルブルクリンクで行なわれた第6戦ドイツGPにF1初エントリー。初戦はリタイアに終わったがそこから進化を重ね、2年目の1965年は2台体制で参戦し、最終戦メキシコGPでF1初優勝を果たした。
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著者プロフィール
吉田知弘 (よした・ともひろ)
モータースポーツジャーナリスト。1984年12月19日生まれ、石川県出身。2011年よりスーパーGT、スーパーフォーミュラなど国内4輪レースを中心に取材。専門誌やweb媒体などで執筆中。日本モータースポーツ記者会所属。









