ロッシの後輩、シモンチェリの短過ぎた生涯。遺志を継ぐ日本人がいる (4ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 ちなみに58というバイクナンバーは、グランプリに昇格する前年の02年に欧州選手権でチャンピオンを獲った際に使用していたものだ。それ以来、彼は終生、この番号をラッキーナンバーとして愛用し続けた。

 最高峰2年目の11年は、前シーズンの経験を生かして、飛躍を狙ったシーズンだった。開幕戦のカタールGPは5位。相性のよいポルトガルはこのシーズンの第3戦で、フロントロー2番グリッドを獲得した。第4戦フランスGPでは、決勝レースで2位を争っていたさなかにダニ・ペドロサと接触し、ペドロサが転倒して鎖骨を骨折するアクシデントが発生した。レース後にシモンチェリは「転倒の原因になったオーバーテイクは、無茶な行為ではなく、あくまでフェアな勝負だった」という旨の発言をしたが、これがペドロサ応援団をはじめとする多くのスペイン人レースファンを刺激し、大きな反発を受けることになった。

 次戦はペドロサの実家に近いカタルーニャGPで、自分たちのヒーローが地元レースの欠場を強いられたことに腹を立てた一部のファンは、シモンチェリに対して脅迫行為を行なうような事態にも発展した。

 この時のカタルーニャGPは、偶然ながらバルセロナ空港でシモンチェリとばったり遭遇するというできごとがあった。

 空港のレンタカー会社で車を借りた際に、駐車場でたまたま隣の車をピックアップしにきたのがシモンチェリだった。彼の傍らには、見慣れない男性が2人いた。シモンチェリは少し照れたような笑みを浮かべ、「ボディガードなんだよ」と弁解するような口調で言った。

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