それは小野伸二、稲本潤一から始まった...チャンピオンズリーグ出場チームの日本人は23年かけて今季は12人に (2ページ目)
【同時多発デロと小野伸二の雄姿】
1998年フランスW杯といえば、日本が初めて出場した大会だが、初戦(アルゼンチン戦)の舞台となったトゥールーズのスタンドは、3分の2近くが日本人ファンで埋まっていた。W杯取材はこの大会が初めてだという知人記者は、その光景を見て「国内の親善試合のようですね」と、漏らしたものだ。正直言って、感激は薄かった。その3年後、ロッテルダムの「デカイプ」で小野伸二を見た瞬間と比較すれば、インパクトは弱かった。ナショナリズムがくすぐられたのは、2001年10月10日に行なわれたCLグループステージ、小野が所属するフェイエノールトとバイエルンの一戦のほうだった。
小野がボナベントゥル・カルー(コートジボワール代表)に代わってピッチに立ったのは、後半28分だった。筆者が日本人のチャンピオンズリーガーをこの目で初めて見た瞬間であった。
1991-92シーズンまで「チャンピオンズカップ」と呼ばれていた時代には、奥寺康彦がケルンの一員として、準決勝に出場していた。1978-79シーズンの話だが、そこで奥寺はゴールも決めている。欧州で活躍した日本人選手第1号として知られるが、第2号はなかなか誕生しなかった。
小野がバイエルン戦のピッチに立ったのは、それから23シーズン、大会の名称がチャンピオンズリーグに変わり、10年が経過してタイミングだった。もっとも、正確には小野が2番目ではなかった。
小野が日本人初のチャンピオンズリーガーの座を"さらわれる"格好になったのは、世界を揺るがした大事件が大きく関係していた。9月11日。筆者は2001-02シーズンのCLの開幕戦をローマで迎えた。「オリンピコ」でローマ対レアル・マドリードを観戦したのだが、その昼間にアメリカで同時多発テロが勃発。この開幕戦はなんとか開催されたが、翌12日に行なわれる試合はキャンセル、延期となった。ローマからアムステルダムのスキポール空港に到着し、その知らせを耳にし、地団駄を踏んだものである。
地元メディアが記したバイエルン戦の予想スタメンには、小野の名前がしっかり刻まれていた。日本人初のチャンピオンズリーガー誕生の瞬間に立ち会えるという期待は一気に萎んだ。フェイエノールトの次戦はスパルタク・モスクワとのアウェー戦。モスクワに行く予定はなかったので、この試合に小野が出場しなかったことに少し安堵した。
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