かつて小野伸二がUEFAカップを掲げた地「スタディオン・フェイエノールト」~欧州スタジアムガイド (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

 建築家のヨハネス・ブリンクマンとリーンダート・ファン・デル・フルクトは、現在はロッテルダムの世界遺産であり、世界で最も美しい工場と名高い「ファン・ネレ工場」の設計者で、当時としては安価な材料であったガラス、コンクリート、スチールを使ったスタジアムの設計を依頼された。

 建築家たちとクラブの首脳陣は、ヨーロッパで最近建設された新しいスタジアムの中からインスピレーションを得るために視察旅行に出かけた。例えば、ウエストスタンドとイーストスタンドがダブルデッキとして建設されたばかりのイングランドのアーセナルのホームだったハイバリー、アメリカ・ニューヨークにあった野球のヤンキー・スタジアムなどを見学した。特に、1932年に建設されたハイバリー・スタジアムのウエストスタンドは会長が夢見たスタジアム計画とも一致した。

 そして、新スタジアム建設には第一次世界大戦中に中立国オランダを通じてドイツからイギリスに石炭を輸出し、巨万の富を築いた億万長者ダニエル・ジョージ・ファン・ベーニンゲンが出資したことで実現した。最初のスタジアムの柱は1935年9月にキャプテンのパック・ファン・ヒールによって取り付けられ、11月にはロッテルダム 市長のピーテル・ドルグレバー・フォートゥインが最初のスタジアムの枠を取り付けたという。

 その後、スタジアムの楕円形の鉄骨構造の建設が始まった。スタンドは2階建てで、視界を遮る柱はなく、ニューヨークの ヤンキー・スタジアムをイメージしたものだった。耐荷重要素やアクセスする階段は囲いの周辺に移動させ、スタンドの上層部は大きく張り出して作られた。「デ・カイプ(風呂桶)」という愛称も、建設中にサポーターやメディアから呼ばれるようになっていた。

 200人の作業員を動員したこの新スタジアムのプロジェクトは、1937年7月23日に完成。しかし、道路や駐車場に問題があり、新スタジアムで試合が開催できなかったため、正式に開幕するまでにはさらに数カ月を要したという。

 このオープンまでの待機期間中、クラブの会長は、スタンドを埋め尽くすだろう大勢のファンの重量に耐えられる構造であることを確認したいと考え、1500人の船員や失業者を集めてジャンプしてファンのように振る舞ってもらい、スタンドの強度をチェックしたという逸話もある。

 こけら落としの試合として、フェイエノールトは新スタジアム建設に大きなインスピレーションを与えたハイバリーをホームとするアーセナルを招待したかったが、スケジュールが合わなかったという。結局、1937年3月にベルギーのクラブであるベールスホットを招いて、開幕戦が行なわれている。

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