イタリアで最も熱狂するミラノダービーの地「サン・シーロ 」インテルと ACミランの本拠地~欧州スタジアムガイド~ (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【イタリアで最も熱狂的なミラノダービー】

 かつてはインテリスタ(インテルファン)が富裕層に多く、ミラニスタ(ミランファン)は労働者階級が中心で、より庶民的であると言われていた。だが、現在では、そこまでの差はなくなりつつあり、両クラブとも広い層から応援されているという。もともとひとつのクラブから分かれたクラブ間の「ミラノダービー(Derby di Milano)」は、イタリアで最も熱狂的な試合の一つになっている。なお昨シーズンまでの両者の対戦成績は、チャンピオンズリーグでの対戦も含めてインテルが91勝69分79敗とリードしている。

 現在はライバルチームが同居する「サン・シーロ」は、もともとは小さな教会の名で、付近の地区もそう呼ばれていた。この地にスタジアムを建てたのは、ACミランの創設者のひとりで、タイヤ産業で財をなし、20年間も会長を務めたピエロ・ピレーリだった。ピレーリ社が2020-21シーズンまで、25年以上にわたりインテルのユニフォームの胸スポンサーだったのは皮肉な話だ。
 
 1925年12月の完成まで、ミランは創設以来いくつかのスタジアムを転々としていたため、ピレーリはトロット競馬場近くに建設を決め、1926年、4つのスタンドを持つ3万5000人の観衆を収容できるスタジアムが完成させた。当時のイタリアでは珍しいサッカー専用スタジアムとして、1934年のイタリアワールドカップでは準決勝の会場としても使用された。1935年、ミラノ市がこのスタジアムを買い上げて、4つに分かれていたスタンドをカーブでつなぎ、収容人数を5万5000人まで広げた。

 一方のインテルは、最初はミラノ中心にある「スタディオ・チーヴィコ・アレーナ」を使用していた。当時、インテルの中心選手で点取り屋だったのが、FWジュゼッペ・メアッツァだった。彼はネッラズーリ(青黒)のチームに2度のスクデットをもたらし、イタリア代表としても1934年、1938年とのワールドカップ連覇に貢献した。また2シーズンだけだがライバルのACミランでプレーしていた時期もあり、インテリスタのみならず、ファシスト政権下にあったミラノ市民の希望の光だったという。

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