ベッケンバウアーが語っていた「真剣勝負」の重み ドイツW杯開催の組織委員長として語っていた「負の遺産」をも見せるコンセプト (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

【日本人が『初めて観た』W杯で優勝】

 ベッケンバウアー率いるバイエルンが来日し、日本代表と戦ったのは1975年1月5日と7日だった。中学生だった筆者は2試合ともチケットを手に入れ観戦している。

 ベッケンバウアーの命日が1月7日なので、ちょうど49年前の出来事になる。友人たち数人と明治神宮で初詣を済ませ、その足で国立競技場に向かったこと。国立競技場のスタンドが2戦とも満杯だったことぐらいしか記憶はない。国立競技場でサッカーを観戦したことはそれまでにも幾度かあったが、満員になったのを見たのはこのバイエルン戦が初めてだったのではないか。日本代表が国立競技場で試合をすれば、たいてい満員になる現在の姿を、当時は想像することさえできなかった。隔世の感とはこのことである。

 西ドイツが自国開催のW杯決勝でオランダを破ったのはその半年前。1974年7月7日の深夜だった。日本のお茶の間にW杯の模様が初めて生放送で流れた記念すべき日でもある。当日は参議院議員選挙だった。各放送局が開票速報を伝えるなか、東京12チャンネル(現テレビ東京)はW杯決勝を放送した。

 ベッケンバウアーはその時の主将だった。オランダの主将はヨハン・クライフ。ベッケンバウアーと言えばクライフ。クライフと言えばベッケンバウアー。欧州サッカー史において両者は対の関係で登場する名前だ。

 西ドイツ対オランダ。欧州の識者は、1974年のW杯決勝を近代サッカー史の幕開けとなった試合だと位置づける。その後のサッカー史に決定的な影響を与えたのはオランダのトータルフットボールだった。しかし、オランダはその時を含め、W杯決勝に3度駒を進めながらいずれも準優勝に終わっている。一方のドイツはその後も1990年イタリア大会と2014年ブラジル大会で優勝を遂げている。

 1990年大会を制したドイツの監督はベッケンバウアーで、監督、選手両方の立場でW杯を制した人物は、ベッケンバウアー、マリオ・ザガロ(ブラジル)、ディディエ・デシャン(フランス)の3人に限られる。そのひとりであるザガロは、ベッケンバウアーが亡くなった2日前、亡くなったばかりだった。これも何かの因縁か。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る