旗手怜央が言語化する「試合勘」の正体「亨梧くんの動きが全く見えていなかった」 (2ページ目)
【亨梧くんの動きが全く見えていなかった】
僕ら選手も試合勘やゲーム感覚といった抽象的な表現でまとめてしまうことが多いが、個人的に体感するその試合勘とゲーム感覚を何とか今回、言語化してみたいと思う。
自分は、相手がボールを持っている時やボールを受ける前に、周囲を見ることが多い。それによって守備ではプレスを掛けるタイミングやコースを変え、攻撃ではトラップしたあとのパス、ドリブル、シュートといった選択肢を増やしている。特にパスは、周囲を見ることで、(パスを)出す先とスペースの選択肢をいくつか持つことができる。
ここに試合勘やゲーム感覚がある時と、ない時とでは大きな違いがある。心の余裕というべきか、ゆとりというべきか、それがあるかないかで見える視野もプレーの幅も変わってくる。
フェイエノールト戦でチャンスだったと自覚していた17分のシーンが、端的に表していた。
ルイス・パルマのプレスにより相手DFが処理を誤り、ボールを奪った自分は、ペナルティーエリア手前からシュートを打ったが、相手DFに当たってしまった。しかし、この時右横には(古橋)亨梧くんが走り込んできていた。
2対1の状況だっただけに、亨梧くんにパスを出すことができれば、ゴールが決まる確率は上がっていただろう。しかし、僕はこの時、亨梧くんの動きが全く見えていなかったため、パスという選択肢を考えず強引にシュートを打った。
この見えていなかったというところに、自分のなかでの試合勘、ゲーム感覚は大きく起因している。
パスが出せたことに気づいたのは、試合を終えて映像を見返したあとだった。映像を見た時、近くに走り込んできていた亨梧くんが見えていなかった事実に悔しさを覚えた。
本来であれば、見えているはずのところが、見えていなかったのである。
自分としては、見えていたうえで、パスではなくシュートという選択をした結果、相手DFに当たってしまったのであれば、納得できる。しかし、見えていなかったため、シュートという選択肢しか持ち得ていなかった自分に納得できなかった。
遠くまで見渡す視野の確保や、瞬間におけるプレー選択の速さこそが、試合勘やゲーム感覚の正体で、シーズンが始まった直後にケガで戦線離脱した影響を如実に感じた。
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