オシムが祖国と教え子たちにもたらしたもの。50年来の友人記者が激動の人生を振り返る (3ページ目)
祖国のW杯初出場にも貢献
監督としての優秀さは、今さら日本の皆さんに言うまでもないだろう。ここではメフメド・バジダレビッチの言葉を紹介するにとどめておこう。彼はかつてユーゴスラビア代表とジェリェズニチャルで、長くオシムのもとでプレーし、現在は監督の道に進んでいる。
「現在ジョゼップ・グアルディオラがしているサッカーは、オシムが40年前にすでに実践していたサッカーだ。彼は速いパス回しのプレーを目指していた。選手としても優秀だったが、監督としては最高のレベルにあった。彼はいつも先を読むビジョンを持っていた」
イビチャの監督としてのキャリアは日本で脳梗塞を起こした2007年に終わった。彼はすんでのところで一命をとりとめ、そのことについては何度もこう言っている。
「私の最高の幸運は、倒れた場所が日本であったことだ。優秀な医師たちが私を助け、人生を取り戻してくれた」
しかし、再び発作が起きる危険はあった。その日からオシムは特別なケアのもと、生活するようになった。妻のアシマと息子のセルミルとアマル、娘のイルマが常に彼の体調に目を光らせていた。それでも、サッカーから離れることはしなかった。2011年ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカーが危機に瀕した時、手をこまねいて見ていることはできなかった。
サフェト・スシッチはボスニアのサッカーの歴史のなかでも最も優秀な選手のひとりで、ちょうどこの時期に代表監督を務めていた。
「イビチャは我が国のサッカーを救った。政治の介入から、サッカー協会にボスニア系、セルビア系、クロアチア系の3人の会長が順番に立つという異常事態に陥り、FIFAはこのような状態が続けば世界の舞台からボスニアを締め出すと言ってきた。幸運にもFIFAは正常化委員のトップに彼を選んでくれた。オシムは権威を手にしても正直で、論理的で、客観的に物事が見え、とんでもない混乱を収めることができた。おかげで我々は2014年、史上初めてW杯に出場をすることができた」
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