本田圭佑、イタリアでの激動の日々。ミランが伝えたのは、サッカーへの真摯な姿勢 (2ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • photo by AFLO

【デビュー戦の翌日に監督が解任】

ミランは2013年の夏から本田の獲得を希望していた。しかし、当時所属していたCSKAモスクワはシーズン末までのプレーを望み(ロシアリーグは12月に終わる)、実際に移籍したのが2014年の1月だった。

「そのためミランはCLを本田なしで戦わなければならなかった」

ポッドキャストはサン・シーロで行なわれた本田の入団会見にもふれている。スタジアムにはレッドカーペットが敷かれ、ミランはわざわざ本田のために背番号の「10」と彼の横顔のシルエットを組み合わせたロゴまで作って彼を迎えた。このことは今でもミラニスタの記憶に強く残っているようだ。経済的効果を狙ったものと見る者も多かった本田獲得だが、決してそれだけではなかったはずである。本田のプレーへの期待がなければここまでのことはしない。

記者会見では、日本人記者から「本田には背番号10は重すぎるのではないか」という質問が飛び、それにマッシミリアーノ・アッレグリ監督が答えるのを実際の音声で紹介している。

「ミランの10番は確かにすごく重いでしょう。タイプは違っても常に偉大な選手たちがこの番号をつけてプレーしてきました。本田はその責任を負わなければなりませんが、きっと最高の形でそれを行使してくれるでしょう」

だが、本田のミランでの日々はスタートから波乱含みだった。サッスオーロ戦でデビューを果たした翌日に、アッレグリ監督が解任されてしまうのだ。

「これが本田のイタリアでの最初の洗礼だった」

監督はマウロ・タソッティの中継ぎを経てセードルフに。本田はミランに来てほんの数日で3人の監督と出会うことになった。

本田が移籍した頃のミランは、その歴史のなかでもどん底に近い状況にあった。かつて豊富な資金をもとに一大黄金期を作り上げたシルビオ・ベルルスコーニ元首相による経営も、長く続く間に疲弊していた。本田がミランにやってきたのはその末期だった。

財政的にひっ迫してチームに必要な選手も得ることができず、契約切れで移籍金ゼロの選手や、若手をレンタルするばかりだった。成績が振るわないのを監督のせいにしては次々とクビを切る。

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