悪童ロマーリオは政治家になっても忖度なし。W杯もFIFAも斬りまくる
あのスーパースターはいま(8)後編
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ミランとジョージア代表で活躍したディフェンダー、カハ・カラーゼが政治の道に進んだのは、ある事件がきっかけだった。ジョージアで医大に通っていた弟のレヴァンが、警官のふりをした2人の男に誘拐されたのだ。誘拐から5年後、レヴァンは遺体で発見された。当時のジョージア政府は、カラーゼの家族に全力を尽くすと約束したのに、実際にはほとんど何もしてくれなかったという。
2009年に生まれた息子に、カラーゼは弟と同じ名前を付けた。そして無能なジョージア政府に怒り、一時はジョージア代表としてプレーすることを拒否。ウクライナ代表でプレーさせてほしいとFIFAに訴え出たこともあった。
しかし、その考えを変えさせたのはジョージアの人々のカラーゼへの愛だった。ジョージアの代表として長くチームを引っ張っていた彼を、多くの人が引き留めたのである。その想いに報いたい、ジョージアをよりよい国にしたいと、彼は選手時代から社会運動に参加していた。
2008年にはカラ基金を設立、ロシアと紛争の絶えない地域の人々への寄付を募った。この時はシルビオ・ベルルスコーニ(元イタリア首相)を始めとしたイタリアやウクライナの有力者とも通じ、5万ユーロ(約700万円)を集めたという。さらに同じ年にはエネルギー資源会社カラ・カピタルを創立。資金を作って引退後に備えた。
2011年、ジェノアで選手を引退すると、彼はすぐに政治の道に進んだ。
「ジョージアには本当の民主政治はなく、ほぼ独裁だった。一刻も早くその体制を変える必要があった。だからすぐに選挙に出たのだ」
1994年アメリカW杯優勝の立役者となったブラジルの英雄ロマーリオ イタリアのニュースサイト『カルチョペルセンプレ』に、彼は当時を振り返りこう語っている。
そして1年後の2012年にはエネルギー省の大臣と副首相を兼任するまでになった。彼はそのポストに2017年7月までとどまっていたが、その後、大臣を辞し、首都のトビリシ市長となった。現在に至るまで彼はこの座にあり、さまざまな改革に乗り出している。
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