モドリッチが大成したのはなぜか。超絶プレーを生み出す右足の秘密 (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by AFLO

無料会員限定記事

 レアルと言えばロナウドだったが、ジダン監督就任後はむしろモドリッチとクロースがレアルの原動力であり、ふたりを支えるカゼミーロも含め、中盤のクオリティこそが強さの源泉だった。

 ロナウドが抜け、アザールがプレーできなくても、モドリッチとクロースがいるかぎりレアルはレアルでありつづけられる。

<タフな環境から這い上がる>

 クロアチアのザダルで生まれた。「モドリッチ」は住んでいた場所にある森の名に由来しているそうだ。地名をそのまま名前に使う風習だった。

 モドリッチ家は戦争難民だった。戦時下で二度引っ越しを余儀なくされている。10歳で名門ハイデュク・スプリトのテストを受けたが不合格。体が華奢(きゃしゃ)すぎるという、よくある理由である。16歳でディナモ・ザグレブのユースチームに加入、18歳で昇格。10年契約を結んだ時に故郷にアパートを買って、一家の難民生活を終わらせた。

 だが、ザグレブですぐに活躍したわけではなく、ボスニア・ヘルツェゴビナのズリニスキ・モスタルに貸し出されている。18歳にしてキャプテンを任され、リーグMVPにも選出された。しかし、次のシーズンも同じクロアチアリーグのザプレシッチへ貸し出される。

 当時、ザグレブには同年代のニコ・クラニチャールがいたからだ。17歳でザグレブのキャプテンという早熟の天才肌。ただ、クラニチャールはフロントと揉めてハイデュク・スプリトに移籍したので、モドリッチはシーズン途中で呼び戻されている。その後、モドリッチとクラニチャールはプレミアリーグのトッテナムで再会するのだが、その時はふたりの関係は逆転していた。

 二度の貸し出しで、モドリッチはハードワークを身に着けていた。そうでなければ生き残れなかったからだ。とくにボスニア・ヘルツェゴビナのリーグはフィールドも劣悪で、「あそこでやれれば世界のどこでもプレーできる」とモドリッチは回想している。タフな環境で鍛えられた。天才少年のままだったクラニチャールとは、適応力で大きな差がついていたわけだ。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る