ジダン頭突き事件の舞台は、
ドイツの「負の遺産」をあえて残している

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 赤木真二●写真 photo by Akagi Shinji

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ベルリン・オリンピアシュタディオン(ベルリン)

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 ドイツの首都はそれまでボンだった。

 1999年4月、ベルリンのテーゲル空港から乗ったタクシーはもちろんメルセデス・ベンツ。しかもピカピカの新車である。運転手のハンドルさばきもクルマに似合う上等さだ。

「何しにベルリンへ?」と聞かれ、「サッカー観戦。ヘルタ・ベルリンの試合を見に来ました」と答えれば「ベルリンは来年、首都機能の移転が完了するのだけれど、それに伴い、ご覧の通り街中も建築ラッシュさ。サッカーもベルリンの街同様、生まれ変わってもらわないと格好がつかないんだ」と返してきた。

 サッカーのクラブの規模、そして実力は、街の大きさと概ね比例する。しかしベルリンは、当時のパリ(パリ・サンジェルマン=PSGが金満クラブとなって台頭する以前のパリ)とともに例外だった。ベルリンの人口は、欧州(ロシアを除く)ではロンドンに次いで2番目にあたる約360万人だが、ヘルタは、チャンピオンズカップ時代を含めチャンピオンズリーグ(CL)に一度も出場したことがなかった。

 それが1998-99シーズンは、4月までブンデスリーガ4位。CLの予備予選出場圏内を維持していた。

「首都移転とCL初出場。2000年は記念すべきいい年になりそうですね」と、持ち上げると、ドライバーは相好を崩すのだった。

 ベルリンの街には、それまでスピードスケートW杯の取材等で3度ほど訪れたことがあった。1989年に倒壊したベルリンの壁の象徴とも言えるブランデンブルグ門の先、すなわち東ベルリン側の風景は、訪れるたびに西側の風景に近づいていった。かつての社会主義色は薄れていった。

 ブランデンブルグ門は、くぐるたびにこちらを厳かな気持ちへと誘うのだった。嫌でも過去を振り返ることになる歴史的な舞台。それは、ベルリン五輪シュタディオンを訪れた際にも抱く感情だ。

かつて細貝萌、原口元気が所属したヘルタ・ベルリンの本拠地、ベルリン・オリンピアシュタディオンかつて細貝萌、原口元気が所属したヘルタ・ベルリンの本拠地、ベルリン・オリンピアシュタディオン 最寄り駅は2つ。UバーンとSバーンの「オリンピアシュタディオン駅」だ。ベルリン中央駅からの所要時間は30分弱。それぞれの駅舎がイカしている。醸し出す古風で素朴な雰囲気に、心を持っていかれる。特にUバーンの駅舎は一度見たら忘れない独創性に富む形状だ。

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