皇帝もホレたバイエルン監督の仕事力。人生経験豊富で選手の心もわしづかみ (2ページ目)

  • 鈴木達朗●文 text by Suzuki Tatsuro
  • photo by Getty Images

 ミュラーは、「今のように自分たちのプレーが明確に規則付けされたのは、ペップ・グアルディオラの頃が最後だ」とも話している。

「どの選手でも、自分のポジションで個々の特徴にあったニュアンスを付け加えることができる。好みのプレーや、長所、短所に合わせてね。でも、各ポジションには、それぞれ明確な仕事が与えられている」(ミュラー)

 フリックは、ピッチ上の戦術やトレーニングのやり方でも世界トップレベルの選手たちを納得させた。

 過去CLを2度制覇したジョゼ・モウリーニョ(トッテナム監督)は、フリックの成功はミュラーを気持ちよくプレーさせたことにあると見ている。

「彼が居心地よく感じられれば、いいプレーをして、ファミリーを助けてくれる」とコメント。さらに、「フリックは監督としてキャリアのはじまりにあるが、バイエルンでファンタスティックな仕事をしている。彼と選手の間に、互いに共感しあう関係が成り立っているのを、手に取るように見ることができる」と話した。

 フリックは、1965年2月24日生まれの55歳。ユリアン・ナーゲルスマン(ライプツィヒ監督)のような30代前半の監督が出てくるドイツで、すでにふたりも孫がいるフリックは、かなりの遅咲きと言える。

 06年ドイツW杯後に、ドイツ代表ヨアヒム・レーヴ監督のアシスタントコーチに就任し、14年のブラジルW杯優勝につながるまでの道のりは華々しい。だが、そこに辿り着くまでは順風満帆とは言えなかった。

 U-18ドイツ代表選手のひとりだったフリックは、当時3部のザントハウゼンで3シーズンを過ごしたあと、20歳からバイエルンで5シーズン(1985-90年)プレーし、104試合に出場。絶対的な主力ではなかったものの、4度ドイツ王者に輝いている。90年の夏にケルンに移籍したが、ケガがつづいた。3シーズンでわずか44試合出場にとどまり、93年の夏に28歳で現役を退いた。

 引退後の94年から00年にかけては、スポーツ商店を営みながらドイツ南西部の小都市のクラブ、ヴィクトリア・バンメンタールでプレーイングマネージャーとして4部と5部を戦った。00-01シーズンには、当時4部にいたホッフェンハイムを3部に導き、05年まで監督を務めた。しかし、目標としていた2部昇格を果たせずに05年の11月に解任。翌シーズンはレッドブル・ザルツブルク(オーストリア)でアシスタントコーチを務めることになった。

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