レアルのエース「7」の系譜。伝説のドリブラーが明かす強さの秘密 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • photo by Mutsu Kawamori/MUTSUFOTOGRAFIA

無料会員限定記事

 アマンシオは1960-70年代のサンティアゴ・ベルナベウを享楽の境地に誘っている。アルフレッド"ドン"ディ・ステファノがベテランの域に入った時、若手として台頭。栄光の時代を分かち合い、後を引き継いだ。

 右サイドでの幻惑的ドリブルがトレードマークだった。テクニックでいえばルイス・フィーゴと双璧をなす。魔術師と呼ばれたが、本当に相手を化かすようで、トリッキーだった。

 当時2部のデポルティーボ・ラ・コルーニャでプロ人生をスタートさせ、2部得点王となってチームを1部へ導く。非凡さが伝わり、バルセロナからもオファーが届いた。しかし1962年、22歳のアマンシオはレアル・マドリード移籍を決断している。

「ベルナベウはコロシアム(グラディエーターが戦った古代ローマ時代の円形闘技場)のようだった」

 2005年の取材だったか、アマンシオはそう回想している。彼の握手はとても力強かった。

「マドリードでは、勝利は至上命令。加えて、観衆を楽しませなければならない。コロシアムで戦うのは、強烈なプレッシャーだった。だけど、重圧に身をすくめるような選手は白いユニフォームに袖を通せない。まあ、私もデビュー戦だけは参った。何せ、それまで所属していたデポルではナイターを経験したことがなかったから(当時は照明設備がなかった)。田舎の小さなスタジアムから10万人の観衆の前でプレーする、痺れる緊張感だったね」

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る