毎週1000キロを母が送り迎え。ジョアン・フェリックスの少年時代 (2ページ目)

  • ジョゼ・カルロス・フレイタス●文 text by Jose Carlos Freitas
  • 竹澤 哲●翻訳 translation by Takezawa Satoshi

「いつもうちに来るとジョアンは中庭でボールを蹴っていた。そして私がゴールキーパーとなってシュートを受けていたのよ」と当時を振り返る。

 幼い頃から、ジョアンはプロ選手になりたいと口に出していたという。ジョアンのスポーツ面における成長過程で常に支えとなってきたのは、父親のカルロスだ。カルロスは陸上のコーチをやっていたが、ヴィゼウの隣町トンデラにあるサッカークラブの下部組織でコーチをやっていたこともあり、ジョアンに対していつも励ましやアドバイスを与えてきた。

 ジョアンは5歳の時、ヴィゼウにあるオス・ペスティーニャスというクラブに入る。そして、ジョアンが並外れた才能を持っていることをクラブの全員が理解するまで、時間はそれほどかからなかった。

 早くからリスボンにあるベンフィカが関心を寄せ、下部組織への入団を誘われる。しかしヴィゼウとリスボンの距離は300kmあり、車でも3時間以上かかる。そのためジョアンは8歳になるとベンフィカではなく、より近くにあるポルトガル3大クラブのひとつであるFCポルトを選んだ。

 リスボンより近いといっても、ヴィゼウからポルトまでは100km以上離れている。毎日車で送り迎えをして支えたのが母のカルラだった。

「息子を練習や試合に参加させるために1週間に1000km以上車で移動していました。それをジョアンが14歳になるまで6年間続けたのです」とカルラは話す。

 ジョアンはやせっぽちで背も低かったが、年上の子どもに対しても恐れなく挑む気の強さを示していた。ポルトもジョアンの才能を高く評価していた。しかしある時から、コーチの責任者がこの子どもに対し、果たして長期的な投資を続けることは意味があるのかと疑いを持つようになった。

 それを察知したジョアンは14年、彼が14歳の時、両親にベンフィカへ行きたいと訴えたのだが、そのシーズンのベンフィカへの申し込みはすでに終了していた。そこでジョアンは、ポルト近郊のマトジーニョスにあるパドロエンセに半年間だけ籍をおいた。そして15年夏、ジョアンが15歳の時に、テージョ川を挟んだリスボンの対岸にある街、セイシャルのベンフィカの合宿所で両親から離れて生活を始めることになる。

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