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日本サッカー「プロ第1号」選手の苦悩と後進に与えた光 「社会的な地位を得たというか...大きな出来事でした」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

 実際、木村と奥寺の2人が1986年、日本初のプロサッカー選手になると、翌1987年にはスペシャルライセンスプレーヤーに代わって、ライセンスプレーヤーという制度が新設され、水沼を含む、72人ものアマチュア選手がプロへと立場を変えることになる。

「それは和司さんの成功っていうか、それを会社が認めてくれたことで、全体的に雇用形態を変えて(サッカー部員を)嘱託社員にして、何人かは(プロ選手として)やれるよという形に、加茂(周/当時日産監督)さんが整備してくれた。

 自分が成功したら、他の人たちも(プロに)なれる環境ができる。そういう責任も、たぶん和司さんは背負っていたと思います」

 木村が日本初のプロサッカー選手として話題になっていた頃から、水沼はその様子を見ながら、あくまでも自分事として「僕らはどうなるんだろう?」と考えていた。

 はたして、水沼にも雇用形態変更の話が持ち上がったのは、入社5年目のこと。ついに、自分のサッカー選手としての処遇を選べるときが来た。

 すなわち、嘱託契約に変更してプロ選手になるか、そのまま終身雇用の社員選手でいるか、である。

 水沼は木村がプロになると聞いたとき、「すごいな」とは思いつつ、その一方で「大丈夫なのかな」とも感じていた。それが自分のこととなれば当然、「散々悩んだ」。

 だが、最終的に選んだのは、プロへの道。「その道を作ってくれたのは、和司さんでした」。

 選手のプロ化が進むと同時に、プレー環境も整備された。

 日産サッカー部では、神奈川県横浜市に新たな練習場が作られ、「ロッカーがセパレートで、ひとりずつになっていました。今は当たり前だけど、当時はそんなロッカーないですよ。クラブハウスには大きなお風呂があったり、それだけでも魅力的でした」。

 それは先駆者が心労とともに新たな道を切り開き、後進がそれに続いた結果、もたらされたものでもある。

「ずっとサッカーをやってきてプロになって、社会的な地位を得たというか、サッカー自体が認められたっていうふうに思いましたからね。やってきたことが間違いでなかったって思えたし、それは大きな出来事でした」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

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