今では考えられないような超大型補強 JSLの日産はなぜ、ユース代表クラスを6人も獲得できたのか (2ページ目)
スーパールーキーを大量補強した日産は、すぐに結果につなげたわけだが、しかしながら、当時の日産はまだ日本リーグ1部初昇格から数えて5年目。その間に一度は2部に逆戻りしており、強豪として知られる存在ではなかった。
水沼がそんな新興チームに加わることを決めたのは、ユース時代の仲間の影響もあったが、監督の加茂周から受けた言葉に心を動かされたことが大きかった。
「これから攻撃的なサッカーでチームを強くするぞ!」
実際、水沼の目にも日産が目指すスタイルは、非常に魅力的なものに映った。
「僕らが(会社に)入るときって、(プロ選手としてではなく)普通に会社員として入る。サッカーを終えたら会社(社業)に戻るっていうスタンスでいたから、現役でいるうちは楽しいサッカーがしたかった。日産であれば、攻撃的サッカーができるって思ったので、楽しく現役時代を過ごしてから会社に戻ろうと思っていました」
学生時代、華々しい実績を残した水沼には当然、日本リーグを代表するチームであった三菱重工や古河電工からも声はかかった。だが、「攻撃的なチームじゃないなと思ったんです」と水沼。社業に戻るまでの限られた現役生活で、「サッカーをやっていて面白くなかったら嫌だな」。そんな思いは強かった。
また、加茂の言葉をより具体的な形で後押ししてくれたのが、すでに日本代表で活躍していた金田喜稔、木村和司の存在だった。
「金田さん、和司さんがいるってのは大きかった。代表でやってるのを見ていたから、すごい選手だなって思っていたし、日産にはあのふたりがいて面白そうだなと思った。そこに入れるっていうのは、楽しみでした」
ただ、これは実際に日産に入ってみてわかったことだが、同期6人はそれぞれ、入社後の待遇には差があったという。
「僕も誘い文句は、(金田や木村と同じ東京・銀座の)本社勤務だったんですよ。でも、辞令をもらったら、(神奈川県横須賀市の)追浜工場勤務で、『全然違うじゃん!』って(苦笑)。でも、サッカーは楽しかったから、まあ、よかったですけどね」
(文中敬称略/つづく)◆日産の黄金期を築いた名コンビはあうんの呼吸もアイコンタクトも「超えていた」>>
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。
フォトギャラリーを見る
2 / 2
























