中田英寿の穴を埋めるように飛躍も...24歳で引退した小松原学がトレーナーという職業にこだわる理由 (4ページ目)
「1ゴールしたサガン鳥栖戦で、相手にタックルされて途中交代......。試合後に着替えて、靴を履こうとしたら、足の甲のあたりが"饅頭"みたいに腫れ上がっていたんです(左足第5中足骨骨折)。ただ、翌日にレントゲンを撮ったものの、ドクターからは『捻挫で問題ない』と言われたので、痛みを抱えながらプレーを続けていました。そして左足をかばっていると、そのうち右足に負荷がかかって右足まで痛めてしまった。目の前が真っ暗になりました」
2001年末に湘南(2000年にベルマーレ平塚は湘南ベルマーレに改称)から契約解除を言い渡され、2002年はヴァンフォーレ甲府に新天地を求めた。だが、両足に痛みを抱えたなかパフォーマンスは上がるはずもなかった。
「甲府に移籍しても状態が上がらずに、最後は世代別代表時代の先生に相談しました。すると、両足を手術するしかない状況で、骨移植もしました。やはり、2000年に右足を骨折していた影響でした。
その後、専門学校に通い始めた頃に自分のケガについて知りたくて当時のレントゲンを取り寄せたところ、画像に骨折線が写っていました。あとからどうこう言ってもしょうがない問題です。ただ、そんな経緯もあって、トレーナーの存在は本当に大事だと実感しましたし、骨のことをきちんと理解したくて柔道整復師の道を選んだのかもしれません」
最後に現役時代のどんなことがいい思い出として残っているのか、と聞くと小松原はこう答えた。
「あらためてそう言われると出てこないですね。当時は楽しみながらプレーしていたとは思いますけど......。ただ、サッカー選手なんて、苦労のほうが多い。引退後も元Jリーガーって、スクールやクラブを作るだけでも、周囲で足を引っ張る人が多いですから(笑)。そういう意味で、僕が頑張って資格を取ったり、ここまで仕事をできてきたのは、経験をすべて糧にしてきたからだと思っています」
17歳でJリーグにデビューし、24歳で引退。小松原は壁にぶち当たるたびに、反骨心を原動力にセカンドキャリアを切り拓いてきたのである。
小松原学
1981年、群馬県生まれ。1999年、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)ユースからトップチームに昇格し、4月11日のセレッソ大阪戦でJリーグ最年少出場記録(当時)を樹立。世代別の日本代表にも飛び級で選ばれるが、ケガのため出場機会には恵まれなかった。その後、ヴァンフォーレ甲府などでプレーし、2005年、現役を引退。引退後は柔道整復師、鍼灸あん摩マッサージ師の資格を取得。またザスパクサツ群馬(ザスパ群馬)ジュニア・ユース(館林)の監督として次世代の指導に携わる。
著者プロフィール
栗原正夫 (くりはら・まさお)
1974年6月11日生まれ、埼玉県出身。大学卒業後、放送、ITメディアでスポーツにかかわり、2006年からフリーランスに。サッカーを中心に国内外のスポーツを取材し、週刊誌やスポーツ誌に寄稿。ワールドカップは1998年、夏季五輪は2004年からすべて現地観戦、取材。メジャーよりマイノリティ、メインストリームよりアンダーグラウンド、表より裏が好み。サッカー・ユーロ、ラグビーワールドカップ、テニス4大大会、NBAファイナル、世界陸上などの取材も多数。
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