中田英寿の穴を埋めるように飛躍も...24歳で引退した小松原学がトレーナーという職業にこだわる理由 (2ページ目)
【高2でプロデビュー】
アテネ組のなかではユース年代でキャプテンを務めたこともあった。それだけに、プロキャリアで最初に第一線から外れてしまった事実を簡単に受け止めるのは難しかったかもしれない。
「取り返しのつかないケガだったので、状況はすぐに理解しましたけどね。当時は、悔しい気持ちと頑張っている仲間を応援したい気持ちが半々でした。
『なんであんなヘタだったやつがプロで活躍できるんだ』。そう思ってしまったときもありました。ただ、いま思えば、そういう選手はコツコツと努力を重ねながら、選手として少しずつ成長し結果を出していたんだと思います。
僕の場合は、世代別代表で飛び級したり、高2でプロデビューしたりと一気に上まで行ってしまったので、どこかで継続性だったり、真面目さが欠けていたのかもしれません。だからケガで簡単に崩れてしまった。引退後、整骨院を始めてコツコツやってきているのは、現役時代の経験が生きているからなんじゃないかと思っています」
ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)時代、1998年4月のセレッソ大阪戦で、17歳9日で当時のJリーグ最年少出場記録を更新した際の記憶はどのように残っているのか。小松原は、その試合で後半途中、FW関浩二に代わって入ると、呂比須ワグナーと2トップを組んでいる。
「ピッチにはヒデさん(中田英寿)や洪明甫もいました。本当はもう少し早くデビューする予定だったのですが、練習で頑張りすぎて内転筋を痛めて、数試合、出場を見送られたんです。あの頃は先輩たちを踏み倒してでも自分がのし上がってやろうと気持ちもギラギラしていました。
デビューできたことは素直にうれしかった。ただ試合に出たあとが大変で......。翌日のスポーツ紙の1面に大きく取り上げられたことで、なぜか地元の特攻服を着たヤンキーが『小松原ってオマエか?』って学校(平塚学園)まで押しかけてきて。平塚の地下道を慌てて自転車でくぐってなんとか逃げましたが、別に悪いことをしたわけでもないのに何だったんでしょうね(笑)」
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