中田英寿の穴を埋めるように飛躍も...24歳で引退した小松原学がトレーナーという職業にこだわる理由 (3ページ目)
【2学年上の黄金世代とともに......】
翌1999年は、高3ながらペルージャへ移籍した中田英寿の穴を埋めるようにリーグ戦(J1)25試合に出場。1000万円を超えるような年俸を手にし、高校生らしくない生活を送っていたと回想する。
「朝、学校に行って、練習時間になると門の前にタクシーが止まっていて、夜、寮に戻ったら洗濯して、また次の日学校みたいな。高校生ながらプロの試合に出ていたものの、何かあると子ども扱いされる。都合よく大人扱いされたり子ども扱いされたり、ノイローゼっぽい気持ちになったこともあります。
満足に授業に出られず、修学旅行にも行けなかった。けど、周りの友達がすごく助けてくれました。学生ながら勝利給や出場給ももらっていたので、お返しにクラスメートと松屋に行ったりした時は『オレの奢り』と大盤振る舞いしてましたね(笑)」
飛び級で招集された1998年6月のアジアユースの一次予選では、2学年上の黄金世代の稲本潤一や中田浩二らと出場し、高原直泰と2トップを組んだこともあった。彼らがその後A代表にステップアップし、海外で活躍したことを思えば、小松原にも高い目標があったと想像するのが自然だ。
「当時U-19日本代表は清雲栄純監督で、清雲さんに『チームで一番年下なのに、オマエがいちばん生意気だ』と言われた時のことは鮮明に覚えています。もちろん僕もA代表に入って、海外でプレーしたいという夢はありました。実際、僕はYES、NOがはっきりしたオープンな性格ですし、海外に行ってもうまくやれたんじゃないかと思ったりします。
ただ、1999年に平塚はJ2に降格。当時はメインスポンサーのフジタの撤退などもあった時期で、それどころじゃなかったというか......。チームも一気に若返り、クラブから『学を中心にいく』とか言われて、目の前のことに無我夢中だった気がします」
そんななか2000年に負ったケガが選手生活を縮めることになってしまった。
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