「自分の仕事に責任を持ち、全身全霊を尽くす」セレソンのアシスタントコーチも務めたジョルジーニョの職業倫理
ジョルジーニョ ロングインタビュー/第3回(全4回)
フットボーラーとしての知識と経験に加え、温かく大らかな人間性と秀でた知性、前向きな姿勢によって、指導者としても成功したジョルジーニョ。ドゥンガ監督を支えたブラジル代表での日々や、自身の指導哲学を明かした。
選手時代にブラジル選手権を制したヴァスコ・ダ・ガマでは、監督としてリオ州選手権のタイトルを獲得した photo by Friedemann Vogel / Getty Images
――現役引退後に監督の道に進むことは、いつから考えていましたか?
「現役時代から、引退したら監督になりたいと考えていたんだ。ただ、選手人生というのは、遠征で長く家を離れたり、家族に大変な思いさせることも多いから、しばらくは家族と過ごす時間を大事にしたいと考えていた。だから2002年に現役を退いた後は、ふたつのことをしていた。
ひとつは今も続けている社会事業。僕の地元であるリオデジャネイロの経済的に恵まれない地域に、『ボーラ・プラ・フレンチ(前へ進もう)』という施設を設立したんだ。子供たちがスポーツや文化、勉強に取り組める場所で、17歳を過ぎたら職業訓練もできる。もうひとつは代理人業。それは全く性に合わなかったけどね。
その間も指導の準備を続け、引退から3年後の2005年に、アメリカRJで監督としての仕事を始めた」
――就任1年後に、アメリカRJはリオ州選手権で前期準優勝、後期も準決勝進出という快挙を成し遂げました。そしてその半年後に、ブラジル代表のアシスタントコーチに就任しました。
「すごく嬉しかった。ブラジル代表での仕事は目標にしていたけど、その機会があんなに早く、2006年W杯のすぐ後に訪れたんだからね。
ただ、常に世界トップレベルのサッカーには触れていたし、今でも続けている。ブラジルで学ぶことは多く、今のブラジルサッカー連盟の監督ライセンスはすばらしいものだけど、ヨーロッパに行く必要もある。その時期に注目している国に行き、試合を見るのはもちろん、クラブを訪問して監督たちと話したり、プロから育成年代までを視察して、その仕事の基盤をもっと知ろうとしている」
――当時、代表監督に就任したドゥンガとは、どう仕事を分担していたんですか?
「ドゥンガは戦術や個々の選手についてなど、僕に自由に意見を言わせてくれた。翌日の練習についてすり合わせて、僕が指示を出し、彼がじっくり観察することもあった。選手に見せるための試合のビデオ編集も、あの時代に勉強したよ。そして試合の時はできる限り高い場所にいて、上にいるからこそ見えることや自分の分析を、試合中に彼に伝えていた。
重要だったのは、彼が一緒に仕事をしているスタッフ全員の意見を聞いていたことだ。スーパーバイザーやGKコーチ、フィジカルコーチ、チームドクターは、長年代表で仕事をしていたから、僕らは日々彼らから学んでいた。ドゥンガは自分でも話し、人の意見も聞いて、最後に決断を下していた」
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