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【Jリーグ】ジーニョが語った横浜フリューゲルス愛「多くの愛情をもらったから、彼らの悲しみには心が痛む」 (3ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【山口は元気か? 前園は?】

 フリューゲルスは前半戦を首位で折り返すが、鹿島と名古屋が猛烈に追い上げてくる。最終節を前に鹿島の優勝が決定的となり、数字上は優勝の可能性を残すフリューゲルスは、最終節で浦和レッズに敗れた。

「最終的に3位に終わったけど、やれることはやったという気持ちだった。もちろん優勝したかったけど、フリューゲルスは優勝争いをすることが初めてだった。チームにとってはすごくいい経験になったと思う」

 1997年は2ステージ制で開催され、ジーニョはファーストステージ16試合のうち15試合に出場した。チームは鹿島に次ぐ2位でフィニッシュする。

 背番号10は7月16日の清水エスパルス戦を最後に、フリューゲルスを退団した。6月に30歳の誕生日を迎えた彼は、翌年に迫ったフランスワールドカップを見据えていた。

「ブラジル代表に呼ばれなくなっていたので、ブラジルに戻って代表監督のザガロに直接プレーを見てもらいたい、と考えたんだ。フリューゲルスを離れたくなったわけではないんだ。家族も日本での生活を気に入っていたし、横浜にはお気に入りのお店だってあった。そしてもちろん、チームメイトと精神的に結びつくことができていたから、チームを離れるのはとてもつらかった」

 古巣のパルメイラスに帰還したジーニョは、1997年9月に2年ぶりの代表復帰を果たした。11月も招集されるが、当時のブラジルは歴代最高と言っていいほど戦力が充実していた。目標としていた1998年のフランスワールドカップを、ジーニョは観戦者のひとりとして迎えることとなった。

 1999年秋に、ブラジルを訪れた。リベルタドーレスカップを制し、トヨタカップに出場するパルメイラスを訪ねた。

 2年ぶりに見るジーニョは、同じく古巣に戻ったサンパイオや若き攻撃的MFアレックスらとともに南米王者の中盤に君臨していた。個別のインタビュー時間を与えられると、日本からの来訪者を心から歓迎してくれた。

「山口は元気か? 前園は? 三浦は? 楢崎(正剛)は?」

 質問するのはこちらのはずなのに、質問責めを受けた。それぞれの近況を伝えると、目もとが緩む。かつてのチームメイトへの愛情は、物理的な距離が離れても薄れていなかった。

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