日本対ブラジルはフットサルもすごかった ベテランライターが思い出す約40年前の国際試合 セルジオ越後やラモス瑠偉が出場 (3ページ目)
【43年前、武道館での試合】
1977年には日本サッカー協会傘下に「日本ミニサッカー連盟」(現在のフットサル連盟の前身)が結成された。そして、1981年には普及のためにブラジル・チャンピオンの「FCバネスパ」を招待して試合を行ない、そして翌1982年には名門パルメイラスを招待して9試合を行なった。そして、その一環として東京の日本武道館で日本選抜との試合が開催された。
日本武道館は東京五輪(1964年)の直前になって建設され、初めて五輪の正式種目となった柔道の会場として使用された。
その後も柔道や剣道などの武道大会の開場として使われていたが、1966年にはあのザ・ビートルズの来日公演が行なわれ、その後はコンサート会場としても有名になった。まだ、「ミニサッカー」がまったく普及していない(いや、サッカー自体がまだまだマイナーな存在だった時代)に、よくもそんな大きな会場を確保したものである。
1982年に日本武道館で行なわれた国際サロンフットボール大会の入場券(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 日本武道館でのパルメイラスの対戦相手は日本選抜。セルジオ越後やジョージ与那城、ルイ・ラモス(後のラモス瑠偉)、アデマール・マリーニョなど、当時の日本で活躍していたブラジル出身の選手たちがメンバーだった。
アデマール・マリーニョはベロオリゾンテ出身のサッカー選手で、1975年に札幌大学の留学生として来日。同大学サッカー部で活躍すると同時に「室内サッカー」もプレー。その後、日本サッカーリーグ(JSL)のフジタ工業(湘南ベルマーレンの前身)や日産自動車(横浜F・マリノスの前身)で長く活躍。引退後は解説者などとして活躍すると同時に、フットサル日本代表の監督も務めた。
1982年に来日した日本選抜には、そんなブラジル人プレーヤーたちとともに、なんと元ブラジル代表の「10番」ロベルト・リベリーノ(1970年のW杯優勝時のメンバーのひとり)がゲストプレーヤーとして加わっていた。
僕がそれまでまったく馴染みのなかった「ミニサッカー」を見に日本武道館まで行ったのも、たぶん「リベリーノ」の名前に惹かれたからだったのだろう。
試合内容などはむろん覚えていないが、普及のための模範試合でもあり、こうした名手たちの足技を楽しむイベントだったことは間違いない。ルール的にも今のフットサルのような激しいぶつかり合いは想定されていなかった。
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