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【Jリーグ】韓国のスター洪明甫が日本で悩み、苦しみ、歓喜した5年間「日本人と理解を深めることができた、かけがえのない時間」 (2ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【カミソリ入りの手紙が届いたことも...】

 そうしたなかで、1996年5月末に2002年のワールドカップが日本と韓国の共催に決まった。前年12月には宣の中日ドラゴンズ移籍が発表されていた。洪の海外移籍への道筋が、少しずつできあがっていった。

「韓国ではKリーグで優勝もしたし、MVPにもなりました。早く外国へ出て新しいスタートを切りたかったので、ベルマーレからのオファーはなんとしても受け入れてほしいとお願いしました。ここで行かなければ、もう一生、海外でプレーすることはないだろうと思ったのです」

 ベルマーレがオファーを出すのは、これが2度目だった。一度目は1994年で、洪は「それからずっと自分を見てくれていた」と、ベルマーレの熱意に心を動かされたのだった。

 Jリーグ行きが発表されると、批判的な意見も聞こえてきた。カミソリの入った手紙が届いたこともあった。家族は「本当に行っていいのか」と不安げな表情を浮かべ、日本行きを反対する友人もいた。

 さまざまな葛藤を乗り越えて、洪はJリーグにたどり着いた。その一方で、彼は日本サッカーを、日本という国を、深く理解していなかった。

「日本でやりたかったというよりも、とにかく海外でサッカーがしたい、という気持ちが強かったですからね」と洪もうなずく。「日本について知っていることが少なかったので、サッカーでも日常生活でも、韓国とのギャップに苦しんだんです。最初の3カ月くらいは、ホントにきつかったですね」と続けた。

 加入初年度の1997年は、ボランチが主戦場だった。長短のパスを繰り出し、ミドルシュートも鋭いから、MFでもチームに貢献することはできる。ただ、本職のリベロではなかったことも、環境への適応に時間を要した一因だったかもしれない。

 3バック中央を任された1998年は、シーズンを通じて稼働した。お馴染みの「20」を着けた彼は、圧倒的な存在感を放っていく。

 1999年からは柏レイソルの一員となる。親会社の撤退でベルマーレは予算規模が大幅に縮小され、洪らの主力は他クラブへの移籍を余儀なくされたのだった。

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