浦和レッズの草創期を支えた「寡黙なレフティ」ウーベ・バイン 福田正博の信頼は絶大 (3ページ目)
【お荷物チームが過去最高の3位】
福田の声も聞く。そのパスを誰よりも受けた男の声は、言うまでもなく核心を突く。
「ウーベは裏に出すのが速い。その感覚に最初は合わせられなかったんだけど、彼のタイミングで動き出せば必ずそこにパスが出てくる、ということがわかっていった。
で、そのタイミングならDFラインを破ることができる。彼とはベタベタとした関係ではなかったけれど、ピッチ上では常に僕を見てくれていた」
印象的なアシストは多い。
たとえば、1995年4月15日の柏レイソル戦だ。福田にワンタッチパスを通すと、背番号9はボールを頭で前へ押し出し、右足でゴールネットを揺らした。左サイドからドリブルでえぐっていくのは、福田が得意とする突破のパターンである。
バインがフル稼働した1995年のファーストステージで、浦和は残り2試合まで優勝争いに加わった。このシーズンから監督に就任したホルガー・オジェックのチームマネジメントや、ブッフバルトの存在も大きかっただろう。前年まで「Jリーグのお荷物」と揶揄されたチームは、ファーストステージで過去最高の3位に食い込むのである。
セカンドステージは8位に終わったものの、年間順位では4位にジャンプアップした。そして福田は32ゴールを叩き出して、ラモン・ディアス(横浜マリノス)、フランク・オルデネビッツ(ジェフユナイテッド市原)に続くJリーグ得点王となる。
11月15日の名古屋グランパス戦で決めたバインのアシストは、多くのレッズサポーターの記憶に刻まれているのではないだろうか。
自陣右サイドでパスを受けたバインは、すぐに敵陣やや左サイドへパスを通した。この1本のパスで、カウンターが成立した。最前線の福田は、パスを受けた瞬間にDFの背後を取って抜け出す。1秒のズレもない連係から、福田がゴールネットを揺らしたのだった。
「福田が得点王を取ってくれたことは、もちろんうれしかったですよ。それと同じくらいに、チームの成績がよくなったことがうれしかったですね。
1994年は1試合勝ったら3試合負けて、やっと1試合勝ったら次は4試合負けたり......最初の半年間は『プレーしていて楽しい』と思ったことが一度もありませんでした。その状況をみんなで立て直して、オジェックが監督になってからチームはよくなり、僕たちは目に見えて成長することができました」
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