遠藤航がクロップ監督をも魅了するマネジメント術 身体的アドバンテージがなかったからこそ培った論理的思考
Jリーグから始まった欧州への道(3)~遠藤航
昨年10月、新潟。カナダ戦、森保ジャパンのボランチとして先発した遠藤航(リバプール)は、2019年に欧州王者、世界王者に輝いた強豪クラブの中盤を任されている理由を、プレーで示していた。
「(日本に)1点入って(前半2分)、(カナダの)PK(前半22分)になるまではうまくいっていなかったですが......」
遠藤はそう説明したが、悪い展開を改善させる手際のよさは極まっていた。
「そこからは修正できました。今の代表は、これといった形があるわけではないけど、戦術の幅みたいなものは広くて、"相手がこれだったら、こう戦って"というようにカメレオンのように変われるというか......。日本人選手はもともと戦術理解が高いと思っているので、おのおのの判断でそれができるようになってきていると思います」
何より、遠藤は攻守の仕組みを動かしていた。彼自身が他の選手の動きに合わせ、補完関係を作ることで、周りのプレーを引き立てていた。近くでプレーした田中碧、南野拓実の2人には一番恩恵を与え、常に背後をカバーすることで積極的な攻撃を促した。守備の綻びも次々に修復。たとえば躍動し始めたアルフォンソ・デイビスに対しては、あえて強くチャージし、その勢いを止めた。
「"前の選手が(守備に)行ったら、うしろがついてくる"と信じられるようにしないと、とは思っています。うしろから(前の守備の)声をかけてもいいけど、自分は"それでは遅い"と思っている。だから、前の選手にまずはアクションを起こしてもらうべきで、もし、それでうまくいかなかったら、自分が修正すればいいと思っています」
遠藤はデュエル王という称号で有名になった。しかし、その神髄はチームを動かし、戦況を好転させられる点にある。長谷部誠から受け継いだ代表ボランチの極意だ。
浦和レッズ時代、センターバックでプレーしていた遠藤航(リバプール)photo by Fujita Masatoこの記事に関連する写真を見る もっとも、Jリーグ時代の遠藤はいわゆるボランチではなかった。
2010年、遠藤は湘南ベルマーレのユースで、高校生ながらJ1デビューを飾っている。2011年にはクラブがJ2に降格していたこともあったが、トップ昇格でいきなりポジションをつかむ。2012年にはなんと10代でキャプテンマークを巻き、PKキッカーとして7得点を記録した。
1 / 3
著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。