オシム・ジェフは休みなしの定説に当時のコーチが反論。休息はあった (5ページ目)
サッカーでメシを食っているんだから、サッカーにすべてを懸けろ――。
それが、オシムの言い分だった。
この頃のジェフは、最終ラインでひとり余らせ、あとはマンツーマンでマークするスタイルだった。ともすれば、ひと昔前のサッカーに見えたかもしれないが、小倉は「あれは攻撃のための形だった」と明かす。
「ひとり余らせていたのは守備のためではなく、最終ラインで数的優位を築いて攻撃を組み立てていくため。当時Jリーグでは2トップが主流だったので、3バックなら必ず1枚が浮いた状態。それを生かして、いかにボールを運んでいくか。守備の時もマンツーマンというより、近くにいる相手を捕まえてインターセプトを狙う。奪ってそのまま出て行けば、相手を置き去りにできるし、それが敵陣だったら得点の確率は高くなる」
つまり、トータルフットボールを目指していたのだ。
首位で迎えた1stステージ13節、敵地に乗り込んだ3位のジュビロ磐田戦に2-2と引き分け、ジュビロの自力優勝の芽を摘み取ったジェフは、残り2試合となっても首位に立っていた。
ところが翌節、初優勝のプレッシャーから経験不足を露呈して清水エスパルスに0-3と完敗し、1stステージ優勝を逃してしまう。2ndステージでも優勝争いを繰り広げながら一歩届かず、年間3位に終わったが、ジェフの躍進は大きな称賛を浴びた。
この2003年シーズン、ジェフを凌いで完全優勝を成し遂げたのは、岡田武史監督率いる横浜F・マリノスだった。その 16年後、F・マリノスのスポーティング・ダイレクター としてリーグ優勝を果たした小倉は、不思議な巡りあわせを感じていた。
(後編につづく)
■小倉勉(おぐら・つとむ)
1966年7月18日生まれ。大阪府出身。ドイツでの指導者経験を経て、1992年からジェフの育成組織で指導を開始。トップチームコーチも歴任し、2006年に日本代表のコーチに就任。2010年南アフリカW杯にも帯同した。その後、複数のJリーグクラブでコーチなどを務め、現在は横浜F・マリノスのスポーティング・ダイレクターとしてチームを支えている。
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