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Jリーグ在籍中にW杯で優勝した唯一のブラジル代表が語る「日本愛」 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 そしてそれはもちろんエスパルスのためにもなった。エスパルスのオレンジのユニホームが、東京ヴェルディの緑、鹿島アントラーズの赤のユニホームとともにブラジルで有名となったのは、ロナウダンのおかげである。

「清水エスパルスの名前が一気に有名になった。私にとっては二重の勝利だった」

 彼は日本にいた時のエピソードも披露してくれた。中でも忘れられないのは初めて地震にあった時らしい。

「地震というものがあるのは知っていたが、実際に遭遇するまで、いったいどんなものなのか想像もつかなかった。忘れもしない、チームで遠征に行っていた時のことた。札幌のホテルの5階の部屋でひとりでテレビを見ていると、突然テレビが揺れ出し、部屋の物がいくつか落ちた。地震の時の対処法は教わっていたが、実際に遭遇してみるとパニックだった。私は部屋を飛び出し非常階段を使って外に出ると、建物に押しつぶされないよう遠くに逃げた。しかしそこは冬の北海道であることを私は忘れていた。私は裸足で薄いシャツを一枚着ていただけだった。

「ロナウド! ロナウド! 部屋に戻れ! 凍え死ぬぞ!」

 チームメイトたちがホテルの部屋の窓から口々に私に叫んだが、私は中に戻る勇気がなかった。凍え死ぬか、地震で死ぬか、私は究極の選択を迫られた気分だった。しばらくしてやっと落ち着き、部屋に戻ったが、その晩はほとんど眠れなかった」

◆「カズ、ジーコ...鹿島初のブラジル人監督が語る」>>

 清水エスパルスでは46試合に出場し、DFながら3ゴールを決めている。彼の人となりには言うことがなく、ピッチの中でも外でも偉大だった。日本にいたのは2年にすぎなかったが、その期間に多くのものをチームに残したと私は思う。

 W杯後、世界タイトルを獲得した選手には多くのオファーが舞い込んだ。特にフラメンゴが強固に彼を望んだ。彼はまたブラジルに戻った。

 フラメンゴでも優勝したのち、今度はサントスに移籍。ここでもまたタイトルを勝ち取り、彼はブラジルサッカー界のレジェンドのひとりとなった。DFの選手がそこまでたどり着くのは、ブラジルでは決して簡単なことではない。

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