Jリーグ得点王に輝きながら、ベスト11に選ばれなかった選手とは? (5ページ目)

  • 浅田真樹●文 text by Asada Masaki
  • photo by Katsuro Okazawa/AFLO

 翌1996年にも名古屋は2位となり、ピクシーは2年連続でベスト11に選出。その後、1999年にも3回目のベスト11に選ばれている。通算3度のベスト11選出は、ビスマルク、エメルソン(浦和)と並び、外国人選手としては最多記録である(Q5の答え=ビスマルク、ストイコビッチ、エメルソン)。

 初めての1シーズン制で行なわれた1996年は、鹿島の初優勝で幕を閉じたが、優勝争いは熾烈を極めた。優勝した鹿島の勝ち点66に対し、2位の名古屋、3位の横浜フリューゲルスは勝ち点63。上位3クラブとも勝敗数では21勝9敗で完全に並んでいたが、PK負けが3つあった鹿島が僅差で名古屋以下を振り切った(当時のルールは引き分けがなく、勝利=勝ち点3の他に、PK負け=勝ち点1が与えられた)。

 それぞれの戦力がいかに拮抗していたかは、ベスト11の顔ぶれにも表れている。

 このシーズンは、MVPこそ優勝した鹿島からジョルジーニョが選ばれたが、ベスト11は横浜Fから最多の3人(GK楢崎正剛、MF前園真聖、MF山口素弘)が選出され、鹿島の2人(DF相馬直樹、MFジョルジーニョ)を上回った。横浜マリノスとの合併消滅が決まる、わずか2年前の出来事である(Q6の答え=横浜フリューゲルス)。

 日本がワールドカップ初出場を果たした一方、横浜Fが消滅するという激動の年となった1998年、すい星のごとく現れたのが、小野伸二(浦和)である。

 清水市商高時代から「天才」と称された小野は、1年目からレギュラーに定着。小野の活躍に引っ張られるように、浦和はセカンドステージでクラブ史上最高タイ(当時)の3位にランクアップ。小野は新人王ばかりか、高卒ルーキーにしてベスト11にも選出された。

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