07年我那覇和樹を襲った冤罪事件。「言わないと一生後悔する」 (3ページ目)
この間、我那覇はずっと孤独に置かれていた。誰も真実を教えてはくれず、流通する報道の中でドーピングの汚名を着せられたまま、釈然とせず、それでも自分はサッカー選手なのだから何とかサッカーに集中しようとしていた。
そんな我那覇は、最終的には3000万円を越える私財を投じてCAS(スポーツ仲裁裁判所)での裁定を望んだ。それは決して自分の名誉のためだけではなかった。そこには一枚の手紙の存在があった。
人を介して届けられた手紙には、この処分は明らかな誤りで、あなたはドーピング違反ではありませんと事実を伝え、Jリーグの医師としてそんな窮地に選手を追いやってストレスを与えてしまっていることへの謝罪が記されていた。
真実が覆い隠されていた中で手を差し伸べてくれたのは、浦和レッズの仁賀定雄チームドクター(当時)だった。我那覇が反応したのは、「この間違った前例が残ると、今後のすべてのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に、常にドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」という一文だった。
仁賀の手紙は裁定のやり直しを強く勧めるものではなかった。事実を伝え、「人生を決める大切な瞬間に、ご本人に本当のことを知ってもらった上で決断していただきたく手紙を差し上げました」と結ばれている。
ひとりの選手が、所属するJリーグを相手に対峙するということのリスクの大きさは想像するに難くない。しかし、我那覇は立ち上がった。それはもうこんな辛い思いを他の選手にして欲しくはないという一念からだった。
自らが下した裁定を正当化するために作られたJリーグ(当時)のドーピングのローカルルールが、いかに滅茶苦茶で選手の身体を蝕んでいたか。
驚くべきことに青木DC委員長は現場の医師の裁量権を剥奪し、中央集権化を図った。一例を挙げれば、治療のための静脈注射をする場合は緊急手術の場合でもTUE(Therapeutic Use Exemptions)という事前許可申請をJリーグに提出しなくてはならなくなっていた。WADA規程には一行もないこの縛りのせいで大ケガをして一刻を争う事態に陥ったU18代表の選手がTUEの許可を待たされたために手遅れになりかけた。
3 / 4