イニエスタだけじゃない?
神戸「バルサ化」戦略は成功するのか (2ページ目)
当時のバルサは戦略に欠け、有力外国人選手を手にしても長続きしない。そんな失敗を繰り返していた。80年代に所属したディエゴ・マラドーナも、そのひとりだろう。それぞれの選手は非凡であっても、チームとしてひとつになるのに苦しんでいた。
バルサは、明確なプレースタイルを欠いていた。彼らにあったのは、「カタルーニャの盟主」としての誇りと、独裁政権の象徴だったレアル・マドリードに対する憎しみと怒りだった。その執念がバルサらしいといえないこともなかったが、ありあまるエモーションはチームとしての不安定さにもつながり、ラ・リーガでは常にレアル・マドリードの後塵を拝していた。
その流れを劇的に変えたのが、1988年5月に監督に就任したオランダ人ヨハン・クライフだった。70年代、唯一のラ・リーガ優勝を選手としてバルサにもたらしたクライフは、英雄として迎え入れられている。そのクライフがすぐに着手したのが、下部組織「ラ・マシア」の充実だった。
ラ・マシアは80年代にはすでに生まれていたが、クライフはそれを完全に作り替えた。
「ボールは汗をかかない」
そのコンセプトを掲げ、各年代からトップチームまで一貫してボールプレーを磨くように徹底した。スカウティングからボールプレーヤーの資質のある選手を選び、同じシステム、同じコンビネーションで強化したのだ。ラ・マシアこそ、バルサのスタイルの根幹となった。
「(ボールを受けるときに)ダイレクトパスなら、誰もおまえに敵わない。ツータッチしたら、みんなと同じ平凡な選手。もしスリータッチ以上したら、私のばあさんと一緒だ」
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