【育将・今西和男】のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 2014年にサッカー殿堂入りした小澤はそう振り返った。

 今西は副部長という肩書で13年ぶりにサッカー部に戻って来た。しかし、1983年、マツダはついに日本リーグの2部に降格してしまう。

「新日鉄も2部に落ちて、勢力図が変わってきたんですね。ホンダが宮本征勝さんを監督にして、ちょうど強くなってきた頃です。ブラジル人選手を何人か入れてね。選手のレベルを比較して、これはヤバイと思い、最初は他のチームの分析をやったわけです。どうして日産が強くなったのか。これからは、もう会社もサッカーを中心に仕事をする選手を認めてもいいんじゃないかと思って進言したんですが、最初は『マツダは文武両道で行くんだ』と聞き入れてもらえなかったですね」(今西)

 こうなったら、今西、お前が監督をやれ、43歳でいきなり監督をやれと言われて戸惑った。それでも自分がサッカーで、この会社に入れてもらったことを考えると、言下に断るわけにはいかない。恩返しのつもりで奉職しようと腹を括った。

「分かりました。しかし、自分が今から現場を指導するのは無理です。このチームを救えるのは、外国人指導者ですよ。それも選手の技術の高い南米型ではなくて、ヨーロッパの人材です」

 今西は総監督の立場を取りながら、実質的な指揮官はコーチに据える外国人指導者に任せようと考えていた。「その人材はいるのか?」

 プロ化する前の日本リーグのチームでしかも2部リーグに降格したばかりである。当然ながら予算はない。今西にはひとつ腹案があった。

 ヤマハ発動機でコーチをしていたあのオランダ人なら、可能性があるのではないか。1982年に2か月だけ、2部のヤマハを指導したあの男はその短期間で劇的にチームを変えていた。1部に昇格させたうえ、天皇杯で優勝させたのである。

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