2015.10.10

【育将・今西和男】のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

『育将・今西和男』 連載第10回
組織を育(はぐく)む(2)

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日本代表を率いたハンス・オフト(右)。今西は その手腕にいち早く目をつけていた

 今西は現役を引退した後、サッカーから離れてマツダでの社業に専念していた。約7000人の若い社員が暮らすマンモス独身寮の管理運営の仕事を完遂した後は、車の販売に回り、ここでもトップセールスを記録して社内的な評価も高まり、厚生課長になった。そんな今西に、再びサッカー部に戻って来いという声がかかったのは、1982年のことであった。かつて日本リーグ不滅の4連覇を誇った名門は、この時期、三菱、日立、古河の丸の内御三家に加え、台頭著しい日産、読売クラブの新興チームにも押されて低迷していた。

「この苦境の立て直しを託せるのは、今西しかいない」と推したのは本社取締役総務部長の小澤通宏であった。東京教育大の先輩であり、メルボルン五輪の日本代表選手であった小澤も、また会社からサッカー部再建のために部長を要請されていたのである。小澤は社員の自治を尊重するような形で7000人もの寮生を統率した今西の手腕を買っており、片腕として欲した。

「当時の東洋工業が膨張していく過程で、中国6県ないしは九州から労働力として若い人を集めました。他の会社では寮の中でバクチをしたり、未成年が飲酒をしていたと聞いていましたが、そういうことを許してはいけない。この若い人たちの人間教育が重要で、とにかくしっかりと寮で育てようというのが社是(しゃぜ)としてありました。社長の松田恒次さん、耕平さんは、ふるいにかけて優れた人だけを伸ばすというのではなく、全員をしっかり伸ばすんだということを言っていましたからね。

 そういう場所に、今西が柱として会社から据えられたわけです。お前が考えてまとめろと。これはものすごく大変な仕事だったわけです。東洋工業は技能養成校という学校を抱えていて、ここは工業高校のように文部省(当時)管轄ではなく、労働省(当時)管轄なんですね。他校との交流や校内の文化祭とかがなくて、社会への窓が開かれていない。だから情操教育として、寮でサッカーをしたり、音楽を聞かせたり、英会話を学ばせたりして、いろいろな経験を積ませました。難しい10代の若者ですよ。それらも含めて見事にやった。私は元々、今西のリーダーシップ、指導力に目をつけていましたから、それでサッカー部に再び引っ張り込んだわけです」