【育将・今西和男】高木琢也「ナチュラルに選手の気持ちがわかる人」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

「GKのシゲさん(松永成立)が見送ったんで、これは入らないなと思ったんです」。しかし、ゆっくりと弧を描いたボールは無情にも日本のネットを揺らした。刹那、ほとんどの選手がバタバタと倒れ、頭を抱えてうずくまる中、高木だけは監督のオフトにすぐに視線を飛ばした。

「北朝鮮と韓国の試合結果如何では、チャンスがあると知っていたんです。それでオフトを見た。オフトはスタンドにいた協会関係者にジェスチャーで途中経過を聞いたんですが、次の瞬間、吸っていたタバコをピーンと放り投げた。それでわかったんです。これでダメだと。意外と監督よりも選手の方が冷静なのかもしれないですね」

 否、あの時間と空間の中で、ここまで冷静だったのは高木だけであろう。

 最後に今一度、この冷静な視点から恩人と慕う今西について聞いた。

「僕のサッカー半生は中学時代、ただ小嶺(忠敏)先生(※)の島商のユニフォームを着たいというだけでした。国見に進んでそこでやめるつもりが、選手権に行けなかったので、じゃあもう少し大学で頑張るか。そこまででした。日の丸を背負う意識はまったくなかったんですが、ここまで来られた。今西さんとの出会いですね。今西さんについて思うのは、立場から言えば会社側の人間なんですが、いつも選手のことを考えてくれていた。ナチュラルに選手の気持ちやそのときに置かれている状況がわかるんですね。あるとき、複数年契約をしてもらおうかと考えたときがあるんですが、契約の場所に行ったら、今西さんからそれを提案してくれたんです。で、結局僕の方でそれを取り下げたんです。やっぱり甘えが出るかと思って(笑)。やっぱり親身になってくれるので信頼関係は絶大でした。今西さんじゃないと腹を割って話せなかったし、逆に契約のときは代理人もいない時代でしたが、すべて言われたことに納得してもめたことは無かったですね。そう言えば、いつも遠征に素潜りの道具を持ってきては、海でいろんな獲物を取って来て食べさせてくれました。今ではありえないですが(笑)」
※サッカー指導者。1968年から1984まで島原商高、1984年から2000年まで国見高の監督を務めた
(つづく)

育将・今西和男 プロローグ>>
育将・今西和男 門徒たちが語る師の教え サンフレッチェ監督 森保 一編>>

4 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る